100億の男とは、巷で話題の安室透なのだが、なぜ過去形かというと、今はもう「100億の男」なんかにならなくていいと思っているからだ。
先日ツイッターで、1回の上映で、1人で3枚のチケットを買っている人を見た。
その人のツイートがTLに流れてきたのではなく、「こういう人がいる」と見かけた人がスクショを撮り、名前もアイコンも隠してツイートしたものだから、私はその人の名前もアイコンも知らない。
名前も知らないその人は、安室透を100億の男にするため、10回の鑑賞で、20〜22枚のチケットを買っているそうだ。
安室透を100億の男に、というのは、安室透のファンが言い始めたものだと思う。
私もそれに賛成だった。
安室透を好きな人たちが、自分が好きなだけ「ゼロの執行人」という映画を観て、ここが良かった、あそこの場面が好き、ここはこういうことじゃないか?と感想を言い合ったり、考察し合ったり、そういう「好き」の結果が興行収入100億円であるのなら、これほど嬉しいものはないと思っていた。
けれど、現実として、「わざと空席を作る」人がいて、この人は「安室透の登場シーン以外は寝ても構わない」と言う。
これで安室透が100億の男になったとして、それは「好き」が集まった結果だと言えるだろうか?
こういう行為をしているのは、1人だけだと言えるだろうか。他にも同じことをしている人はいるのではないか。
安室透は、名探偵コナンという作品は、「わざと空席を作っていい」作品だと思われているということだ。
誰もチケットを買わない、空席があるのとは訳が違う。
私の大好きな安室透は、「その程度の男」だと思われているのだ。1人でチケットを複数買って、わざと空席を作って、安室透の登場シーン以外は寝てもいいと思われるような。名探偵コナンという作品が軽んじられているような気がした。
私には、名前も知らないその人の気持ちが分からない。分からなくていいと思う。
けれど、「安室透を好きな人が、好きなだけ映画を観て、その結果100億の男になったら」という夢は、その人に奪われてしまった。
私は夢を失ったし、ショックがあまりにも大きすぎて、大好きな安室透を見ることも、今は少し避けている。
安室透がこのまま100億の男になったら、名前も知らないその人は、自分の手柄だと思うだろう。表には出ていないけれど同じことをしている人も、自分の頑張りで100億の男になったと思うだろう。
私はそれが悔しいし、そう思われるくらいなら、もう100億の男になんてならなくていいと思う。
100億になんかならなくても、またいつか100億を目指せる時が来る。
一方ガルパンおじさんは違う展開を幻視するほど映画館に通った。
うんち