2018-06-02

サブカルクソ野朗/クソ女について考えた

当たり前だけど、音楽は音を聴くものだし、作曲者演奏者は、音に全身全霊を込めているだろう。

でも私たちは、たとえばB’zライブコンサート映像とか観て、「稲葉さんカッコいい〜!」とか思ったりする。視覚情報につられて、音まで数割増しで良く聴こえたりする。

もちろんこれは聴き手として悪いことではない。というか、自由だ。たとえば、稲葉さんをアイドルのように愛でようがその人の中で完結しているなら問題はない。

だが、他人に「楽しみ方」を強要するとなると話は変わる。

私は音楽聴くなら音をまず第一に楽しみたいと思う方だが、それを他人提案することはあっても、押しつけることはしたくない。(その二つが紙一重で、過去私も周りに嫌な思いをさせてしまっている…)

そもそも良いコンテンツほど、楽しみ方の幅は広く、そこに優劣は存在しない。

だが、優劣がないもの同士集まるとマウンティングしたくなるのも人間というもので、「自分(たち)の楽しみ方こそが至高」という考えを持つ層はいものだ。

そういう人たちのことを「サブカルクソ野朗/クソ女」と定義したいが、別にサブカルチャーに限った話でもないしちょっとズレてるか。

  • 優劣のないもの同士が集まる〜ってとこが論理としてわからん。。どういうこと?

  • サブカルってもっといいもんだったんだよ。ナゴムとか宝島とか中沢新一とか。あれ、おかしい。全然よくねーな。

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