2018-03-25

送辞

思い返しますと、わたし大学生活はそう面白いものではありませんでした。

入学してから何度か自己紹介を繰り返してやっと気付いたのですが、わたしはどこのサークルにも馴染めていませんでした(これはわたし性格が良くないのが悪いのですが)。大学というのは自由平等の広がる実に理想的世界だと思っていたのですが、サークルというのも実際のところただ横文字を使って気取っているだけで、義務教育時代高校時代の「ムラ」感あふれる部活と対して変わらない構図があるのです。

簡単なことですよね。人間は脱皮をして進化するわけではないのですから

はいえ、わたしがムラ感があると表現しているものは、ほとんどはみなさんが気に掛けないような瑣末な出来事です。しかし、いわゆる身内同士の褒め合い、馴れ合い程度でも、「そちら」側に回れなくなるだけで大きな負担になるものです。わたしはいつも多数の「ミウチ」側に回ることができません。みなさんがごく簡単にやっていることのはずなのに、です。

どんなところでもわたし以外のミウチができてしまうのだろうと思っているうちに、大学の人とも話さなくなりました。そんなことをしているうちに、そのままいつの間にか卒業まで漕ぎ着けてしまったのです。これってすごく馬鹿らしいことですよね。

思い出してみますと、高校生の頃からそうだったのです。学校にいる間は談笑している友達とも、制服を着ていない時に遊びに行ったりすることはありませんでした。大学はいつも私服なので、講義外の時間にもどうにかサークル活動に参加できていたのかもしれません。わざわざ色々と試着して回ってまで制服可愛い高校に行くべきではなかった、と今は思っています

わたしが入ったのが、ゆるくて目的の薄いサークルばかりだったせいにも思われます。いっそのこと、みんなで協力して難しいことを成し遂げるようなサークルを探せばよかったと思うのですが、そんな大きな行動を起こす勇気もありませんでした。それに、わたしのような弱い人間責任感や忙しさのせいで疲れてしまうのでしょう。そうなると、今とは別のもっと生産的なことで悩んでいただろうと思います

ミウチに入って活躍するのが得意な人は、面白さを「絶対的」に評価できる指標があると考えているようです。いえ、しかし、絶対的面白さはないのです。面白さはその場の空気人間関係に基づいて決まる実に脆いものですから。その共通部分をすばやく見抜ける人が面白いと言われるのです。とはいえ、絶対というのも一つの特別な相対ですから絶対的面白さというのもあながち間違いではないのでしょう。

多数派のつまらない人々は彼ら自身で群れていれば良いのです。

わたしの周りの皆さんは、何を面白がってもらえるか、自分にどんな魅力があるのかをよく知っている人が多いです。誰を見ても、私より素晴らしい人間です。しかし、彼らは面白い人間というわけではないのです。何も考えずとも他人と仲良くできる人や、誰かと騒げればいいという人もいますわたしが誰もが優しくするような見た目をしていたら、美少女の皮をかぶれたら、もっとあたたかくて柔らかな空気が私の周りを流れていたのでしょう。

そんなわたしも、インターネットでは少しだけ人気がありました。ツイッターを知っていますか? あそこでは、私がもう一人の私でいられるのです。でもこれも、インターネットではわたしの姿や声が分からないおかげです。彼らが、わたしの嫌なところを見ていないからだろうと思います。みんなが私の身体だけを見てくれます友達というのも実際にはお互いの関係から絶対的に言い切ることはできませんけどね。

わたしは恵まれていますインターネットでは幸せを得られたのですから。ほんとうのわたし幸せは、そう遠いところにあったはずではないのです。いつか、今度は、まだ間に合うと思っているうちに、終わってしまいました。

「元」友達ブロックされてしまうと、いつも何とも言えない気持ちになります。初めから出会わなければよかったのに、と思ってしまます。彼らが気の毒でなりません。わたしが負うべきすべての動作を彼らに任せているのですから。悲しい気持ちになりながら、人の人生に入り込めたのだと、口元が少しだけニヤニヤしてしまうのです。

ツイッターアカウントを消すとすっきりします。いえ、すっきりしました。わたしが追い詰められてアカウントを消したと勘違いなされているでしょうがわたしは依然として楽しく生きているのです。わたしが楽しくヘラヘラと生きている間に、彼らが悩んでいる。そういう時に、少しだけ悲しくなります

ずっと、わたし旅人のような存在で居続けるのでしょうか?

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