書いてくれてありがとう。
こんな時間に起きてしまっている、というのはまさに苦しんでいるからで、それは幸せに関する事でもある。
幸せになりたいが故に愛し、愛するが故に苦が生じる。
幸せを希求した結果が、自分の場合は苦しか生まなかった。自身にも周りにも、苦しか与えていない。
愛そのものに全く後悔はない。その結果が、苦しか生まなかったことに後悔がある。
しかも、その原因は本当に些細な運命のいたずら、としか言えないものだ。
愛別離苦というのもあるが、愛自体を否定している訳ではなさそうだ。愛自体を否定している宗教は、無さそうに観測される。
何が愛なのか、どうすることが愛なのか、の見極めと実践なのかなと考えている。
心身を持った今を生きる私、の個人的心象という視点で、それが幸せなのかは、ともかく。
広い視点で考えれば、個人としてつらい選択もまた幸せなのかも知れない。
苦を与えることも愛、という考え方もできそうだが、この立場に自分がなるというのは本当に最悪だ。
しかしそれは選択できない。それ自体がさらに多くの苦を生むから。そして、巻き戻しもできない。
怒りも買っている。
他人に対して怒りが湧くときも、お互いが「相手も幸せになりたくて、その行動をとっているんだ」と思えば、多少軽減できるし、「じゃあどちらも幸せになるように新しい手段を探そう」と原因の解決に迎える。
この解決自体が難しい状態にある。もし解決する方法があるとしたら、哀しむことだろうか。
と書いておられるということは、今は幸せな状態なのだろう。素直に羨ましい。
私もできれば、いつかそうなりたい。私の場合、哀しみは長くなるかも知れない。
幸せについて本気出して考えてみた。 「幸せ」とそれに関係する「怒り」「哀しみ」について書いてます。 本気で考えたから長くなったし、読みにくいと思う。 生きる目的は「幸せで...
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仏教の「十牛図」ってのがある。 もし暇だったら解説などネットにも転がってるので目を通すのをおすすめしたい。 あなたと同じテーマに挑んだ先輩の体験談のようなものだ。
「貪瞋癡(貪り、怒り、迷い)」の3毒に満たされてるときが地獄なり。その3毒が滅した時が浄土(=幸福と捉えている)なり」というのが簡素な幸福論だと思う。 けど、それが翻して...