あ~、私と似ているような似ていないような。私も人の言葉をそのまま額面どおりに受け取ってしまうことが多くて、実際ならあり得ないことも「へぇ~、そうなんだ」とか納得して周りに笑われたりする。「なんか変」とか「あり得ない」と思いながら「人の言葉はそのまま受け取るのが礼儀」と思っている元増田さんの方が空気読む力があるように思う。
いまだに裏表の使い分けがうますぎる人は苦手だし、社交辞令も真に受けてしまうので「口先だけで調子のいいことを言うな!」と思う。上司には「鈍感力がある」という失礼な評価を受けている。世渡りがうまい人は、普段陰で悪口を言いまくっている相手に対しても調子のいいことを言えるし、そんなに仲良くない人に口先だけで「今度飲みましょう」とかいうけど、そういう心で思っていることと口から出る言葉が逆な奴にむかつく。
人材不足だから雇い続けてもらえるかも…と思うのは大きな間違い。
世の中の九割の人は居続けてもらいたいと思えるような逸材ではない。
上司は常に自分をクビにしたがっている、という前提で動くのが最善なんだよ。そうすれば、本当にクビになったときにも準備ができる。
なんか嘘くせーなって思う時って変に追求してもこじれる場合あるじゃん?そういう時に30%だけ信じたりする。
増田がめちゃくちゃ良い奴なのは分かったし、俺も昔は信じないより信じて裏切られた方が良い派だったけど、一番いいのは期待値を下げることだと思ってからそうなった。
嘘松とか言われてて気の毒だったので、自分の似たような体験も書いておく。
先月の忘年会でのこと。
同じ課のメンバー数人で行った店で、6人くらいのテーブルにガスコンロと鍋が用意された。
40代のおっさんが鍋の前だったので、「xxさんそろそろ鍋始めましょう」と言ったら「おれよく分かんないんだよね」と言い出した。
とりあえず火を付けてもらったけど、その後も火の調整とかなんもやってくれないから、しびれを切らして「火弱めたほうがいいんじゃないですか」「もう火止めましょう」「麺入れるから火付けてください」とかいちいち指示する羽目になった。正直安い店だから、味は期待してないし多少煮えすぎてもいいし適当でいいんだが、最低限やるべき火の調整ってあるじゃないですか。
びっくりするのが、これでも中学生くらいの子どももいる父親なんだよ。
いい年の大人なんだし、鍋の火の調整くらい分かってくれよと思う。
勝手すぎるだろ 笑
ぎっちょって言葉が差別語になってたり、後は無理矢理右利きに強制されて弊害がみたいな話も一応あるけど、
でも現代日本の四十代以下なら左利きにネガティブイメージはほぼないと思うんだよね。
にもかかわらず、左利きの人には些細な生きづらさが無数に重なっている。
世の中の品物の多くが、右利きの人にとって便利なようにできている。
左利き用が売ってる場合もあるけど、そういうのは高かったり、買うのに若干の手間がかかってしまう。
それは凄くシンプルに、「どっちの手で使っても問題ないデザインをするのは困難であり、かつ両利き用のものを設置する予算やスペースがないなら、90%をしめる右利きの人に合わせた方が益が大きい」という話。
これ。これですよ。
左利きに対する悪意や嫌悪なんてほとんどない社会においても、マイノリティということで負担を受けてしまう。
この……何というか……水は低い所に流れるとか、エントロピーは拡大していくみたいな物理法則並に厳然とした、
「9人にとって便利なものと1人にとって便利なものなら、9人が使えるものを作った方がお得」っていう法則がある限り、
資源に限りのある社会で、マイノリティはワリを食わされるのではないか。
そして資源が無限になることはないので、永遠にマイノリティはワリを食わされ続けるのではないか。
どうにかならないんですかね。
怒られることを恐れるな!!!
30%信じるって、70%信じてないってことじゃないですか。
それは「相手の誠実さを信頼していない」ことのような気がして、ものすごく辛いんです。
これも何かズレた認識なんでしょうか。
おっしゃるとおり納得はできないですね。
しかし、よくよく考えると、市長と祖母と友達はなんか変なヒロインを認識しておりますし、祖母に至っては入れ替わっていると言い当ててましたよね。そうすると、周りの人間が隕石落下時のヒロインについて思い出話とかで話すと思うので、ヒロインはそれを夢と認識するのはおかしくないですかね?
そう誰もそこまで考えてない
被害者様のお気持ちなんてものは、殴る理由として持ち出しているに過ぎない
相手はこう言っている。真実である可能性30%とか、本気度60%とかそんな感じ。
親は選べねえな
小さい頃から「嘘は言ってはいけない」と思っていたし、人の言うことはまず「信じて」理解するべきだと考えてきた。
人の言葉を疑わないと言う意味ではなくて、疑うのはいくら疑ってもいいんだけど、相手が嘘だと認めない以上は、どんなに疑わしくても、とりあえず「相手のいうことは正しい」とみなすと言うこと。
この態度がどうやって身についたのかよくわからない。小さい時から冗談を真に受けたりして「どうしてそうやってすぐ信じちゃうの?」なんて言われることがあった。別に本気で信じているわけではなくて、冗談のように信じたがいことであっても、そう言うのだからそうなのだろうとみなして理解するのが礼儀というか、当然そうするべきだと思っていた。多分、礼儀という概念はわかっていなかったけど、「人の話を無視してはいけない」みたいな感じで、当然、人の言うことを嘘だとみなすなんてことはしてはならない、みたいな。
そういえば、「人の話を無視してはいけない」は、多分小学校とか幼稚園で大人に言われてそのまま受け入れていて、中学くらいまで正しいと信じていて、高校生くらいの時に法学の勉強をするようになってから、「人の話を無視してはいけないと要求してはいけない」と認識を修正して、これは大変なショックだった。自分は今まで間違ったことを教えられてきて、それを今までずっと正しいと思い込んでいた、と言うことを受け入れるのが大変だった。
「人の話を無視してはいけない」って子供には一般的に教えていることだと思うし、みんな大人になるに従ってこれが世の中では通用しないことは肌で感じるはずなのに、どうやって折り合いをつけてるんだろう。
それと同じような感じで、「相手のいうことは正しいとみなすべき」って言うずっと受け入れていた正しさが、対人経験を重ねるにつれて、現実と整合できないと感じること。
相手の言っていることがある程度疑わしいとき、一応自分は確認をするようにしてきたつもり。「それは本当なの?」「本当だとするとこれおかしくない?」みたいに、それが信じがたいと感じる理由を説明して、相手が「実は嘘でした」と認めるか「それはこういうことだから不自然じゃないし疑うことないんだよ」って説明してくれるのを期待していた。
納得できる説明が得られなくても、相手が間違いを認めなければ、やはり信頼しなければいけないと思っていた。それが相互に信頼するために必要な態度だと思っていた。
でも、世の中では、信頼っていうのはそういうことじゃないんだってことを、最近強く感じる。言葉では認めないのに、やはり本音は自分が疑っているようなことで、そして自分がそれを疑う理由は全く正しく、そのような疑う理由が明らかにあるから、相手もこちらが察することを期待していたり。
自分では察することはできているつもりだ。察しているからわざわざ念押しの確認質問をしたり疑問を表明したりするんだ。それでも認めなければ、「疑わしいけど、本人がそういう以上信じるしかない」というのがこちらの結論になってしまう。
それが後になって、最初から疑いの方がただしかったということを告白されて、ものすごく悔しく裏切られたような気持ちになったりする。わかっていたのに、無理やり信じさせたのはそっちじゃないか、と思ってしまう。
言葉への信頼を裏切られるというのはものすごく辛く悲しい。でも世の中の人は、言葉を重視していないみたいだ。行動とか態度の方が重要なんだ。
逆に、立場をひっくり返したらいいのか。言葉ではなく行動と態度を聞いて、言葉ではなく行動と態度を信頼したらいいのか。どこかにそういう慣用句のようなものがあった気もする。でもそれって、相手の誠実さをはなから信頼しないってことじゃないのか。そんなことしていいのか。
こういうことを考えることが、度々ある。
きわどい表現を見てむぅっとなった時に、差別的だから不快になってんだか、差別的だと誰かが傷ついたり怒るだろうなと思って不快になってんだか、自分でもわかんなくなってきた。
うーん、色々苦労があるんだな。日焼け止めはちゃんとしておいた方がいいぞ