2017-12-21

はあちゅう嫌いだが、支持という立場について

・今回、はあちゅう氏の告発により、岸氏の信用が地に堕ちると共に、はあちゅう自身批判が集まり、結局、告発行動の趣旨矮小化されてしまった。つまりセクハラを許す構造は何に由来し、その構造が未だに維持されている業界は他とどう違っており、我々はどのようにその構造解体したらいいのだろう?という議論の深まりには至らなかった。

武器を持った通り魔が瞬間的に大量殺戮を行なうのを制止するのと異なり、日常的恒常的に行われるある種の性暴力は、単に悪い個人排除すれば解決する問題では無い。それを許す(時にはそのような人を求める)ような土壌、構造存在する限り、排除された権力の空白に他の誰かが座るだけだからだ。仕事が出来るキチガイは、どうせ星の数ほどいるのだから

・このような構造、土壌を個人の力で解決することは非常に難しく、だからこそ誰かが声を上げ、人数のチカラ、ある種の動員を持ってして構造改革にまで持っていく必要がある。metoo運動に意義があったとしたならば、そのようなところだろう。

しかし、結果として、そのような論点には目はあまり行かず、はあちゅう氏やよっぴー氏に批判が集まり「岸氏は非常に悪かったが、はあちゅう氏も同じ穴の貉的」な扱いを受けることになってしまった。

・この増田としては、よっぴー氏や深津氏が問題点として挙げていた「身辺が綺麗な人間で無いと告発出来なくなる」ことについてもう少し深く言及していきたい。

・一部では岸氏のセクハラ問題とは別にはあちゅう氏の童貞揶揄問題があるのであって、それはそれこれはこれで批判すべきであると言う正論が主張された。確かにこれは全く別件の話なのであって、別の話としてはあちゅう氏が批判されることは妥当であるかのように思われる。

しかし、問題はそんなに簡単なのだろうか?ここから人々はこう学習するのでは無いだろうか?「セクハラ告発をすると注目が集まり、その結果、告発関係ある/ないを問わず批判が集まってしまう」と。そのように言うと、批判妥当性を持ち出し、妥当批判から為されるべきである、とあなたは言うかもしれない。

物事はそのように単純には割り切れない。告発者にとってみれば、批判妥当であればあるほど、正当であればあるほど、謝罪や総括や反省をする必要性が生じる。告発による負荷が増えるのである。それは、別件であろうが何だろうが、告発を行なった結果、告発トリガーとして発生したことなのであって「実質的告発コスト」として勘定される。告発者となる可能性がある人が、これらを予期し、結果としてそれをやめてしまうことは充分考えられる。

・それでは、果たしてそうした予期を防ぐために、我々は司法取引的に、告発者の全てを許すべきなのだろうか?いや、それもあってはならないし、単に受け入れられ無いだろう。はあちゅう氏のある種の価値観童貞揶揄に対する批判はいつか為されるべきだった。

・ここでの落とし所は「いつか為される」こと、つまり司法取引的に告発者の過ちを「全て帳消し」にするのではなく「一旦、この告発が行われたタイミングで過ちに対する請求(批判反省謝罪を求める行為)を停止し、しかるべき時と場所で行う」ような、タイムラグを作ること、あたりにあったのではなかろうか?告発コストとして勘定されないように、すぐに批判を加えず、一旦留保するいう振る舞いである。

・その意味で言うと「はあちゅう嫌いだが(一旦置いといて)、告発応援する」という態度は、実はかなり妥当な落としどころであった可能性が高い。しかし、よっぴー氏の擁護が「彼女の過ちをチャラにすべき」のように響いてしまった(意図はそうでは無かったようにも読めるが)のもあり、その遅延的な免罪も無くなってしまったように思う。

・無論、別の観点、例えばはあちゅう氏の発言や態度により、実質的被害を被った人の立場からすれば、はあちゅう氏の過ちに何らかの配慮すること自体を許せない、許さないと主張するのも当然、正当な立場である。それが帳消しだろうが遅延だろうが関係ない、結果として、セクハラ告発コストが上がろうが、それは別の話であって、自分には関係の無いことだ、と。

・ここで、我々はもっと当事者意識を持つべである問題はこのように複雑である。我々は例えば、どちらかの立場を選ばざるを得ない。

1)告発者の過ちに何らかの手心を加え、告発コストを下げて悪しき構造解体への寄与コミットする。

2)告発者の被害者コミットし、告発者を批判し、反省を促す。実質的告発コストは上がる。

・そう、我々は無関係では無い。我々がこのような件について言及するとき批判するとき、それが本気であっても面白半分であっても、その件についての、なんらかの結果を左右してしまう。我々はいずれかの立場を助け、もう一方を挫くような、そのような当事者である。つまり、ある立場人間を傷付ける者である

告発者は善人でなければならないのだろうか?やましい人達は、弱い人たちであることも多い。傷つく人達は、愚かな人たちであることも多い。素晴らしい人たちについて、我々は簡単に同情可能である。善人ついて我々はすぐに感動を覚える。善き人たちは、すぐに救われるだろう。善人たちとともに、そうでは無い、理解不能で、愚かで、同情し難い全ての他者を「人間扱い」するために、おそらく、人権はある。

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