みじめなだけだろ
みんなね、フツーは小学生前後で一人称が固定化されていくと思うんですよ。俺も友達に対しては「俺」、目上には「僕」というのがスタンダードになってそのまま30過ぎまで生きてきた。
ところがね、両親に対しては「俺」も「僕」も使えないのよ。俺。
日本語便利で主語省略してもけっこうイケちゃうクチだからほぼ問題にならないし、主語を添える必要がある場合は「ワシ」とか「ワタクシ」とかでおどけてごまかしてる。
なんでこうなっちまったんだろうなー。
幼少期は「一人称=自分の名前」だったんだけど、ここから「俺」にジャンプする機会を逃し続けてしまったんだよね。なんか謎の恥ずかしさがあって「俺」って言えない、けどもう名前呼びには戻れなくて一人称喪失。
両親は毒親ではないけど厳しめではあったので「俗っぽいことは怒られそう」と勝手に忖度してたとこはあるかも。そんなことで怒られるなんて絶対なかったのにね、って今なら言えるけど。
ちなみにややこしいのだが、親の面前でも同席してる第三者に対しては「俺」が使える。なんなんだろうねこれは。
こういう人います??
「○○さんが、よろしく言っといて」
とは。
▶誰宛か
「○○さん」が(増田さんに)「よろしくね」。
○○さんから宛先への「よろしく」であり、宛先が端折られている場合(増田さん宛)。
この宛先の部分が不明瞭なら、
「よろしくと伝えるのは、増田さんですか?それとも他の誰か宛ですか?」と
▶どうすればいい
○○さんから、増田さんへの好意的な挨拶なので、何もしなくていいか、軽く連絡位はしても楽しいかも。
「宛先の人に」伝えてあげる。
それって友人なの?ありえない……
ふざけんなと言われても働きたくない・・・シクシクシクシクシクシクシクシクシクシクシクシクシクシクシクシクシクシクシクシクシクシクシクシク
そんな言葉をネットのどこかで見かけてから、仕事で外出すると街を歩く人々が気になるようになった。
当然、そんなことはない。そもそも平日休みの職種などいくらでもあるし、時間帯によっては学生だって楽しそうに街をうろついている。
でも、やっぱり目に飛び込むのは老人と外国人だ。
スーツや作業服に身を包んだ人々は皆どこか余裕がなさげに見える。
そう見えるだけなのはわかっている。ビジネスマンが疲れて見えるのも、ショップの女性店員の目が笑っていないように見えるのも、すべて自らの余裕のなさがそう見せているだけだ。
コンビニや居酒屋にはどこの国かもわからぬ外国人がたどたどしい日本語で接客をする一方、大きなキャリーバッグを引きながら何処かへ向かう外国人がいる。この差は何なのだろうか。
仕事に就いていることはまぎれもない幸福で、こうしてとりとめのない意見がインターネットに書き散らかせることもやっぱり幸福なことなのだろう。自分が無い物ねだりをしているだけなのはわかっている。
しかし、それでもやっぱり俺は、電車で楽しそうに談笑する外国人や、集団で観光地に向かう老人たちを見かけると、今の自分には到底手に入らないであろう幸福というものを感じるのだ。
父親の存在存在いうけど、父親には稼ぐのに集中してもらいたい考えもあると思わない?
子供育てるのにはお金かかるんだから、収入は多い方がいいでしょ。