息子ができてから、妻の機嫌が悪くなることが増えた。
あれほど穏やかだった妻ですらこうなるのだから、子育てとはかように過酷なものなのかと実感する。
日常の様々なシーンの中で、特に私が気を使ってしまうのは食事の時だ。
家事と育児に追われ、時には子供の泣き声をBGMにしながら、それでもなるべくきちんとしたものを貴重な30分や1時間を費やして用意してくれる。
それは本当にありがたいと思っているのだが、私は食べるのが比較的早いほうで、作るのにかかった時間の何分の一の時間で食事を終えてしまう。
できるだけ感謝の気持ちは表すようにしているつもりだが、それでも体調が万全でなかったり子供の世話がいつもよりかかった日などは、
こいつ私が大変な思いをして毎日作っているのを当たり前のような顔して平らげやがって、と思われていないかと不安になる。
でも私としては、それを妻に強要しているつもりは一切ない。
いくらでも手抜きをしてもらっていいし、何なら毎日手料理でなくとも構わないとも思っている。
そもそも食事とは単なるエネルギーの補給手段であって、呼吸や排泄と同じように、生きるために必要不可欠だから仕方なくやっていることではないのか。
動物だって、肉食なら狩りのために動く必要があるが、獲物が手に入れば後は肉を食らうだけだし、草食動物はそこら辺に生えている草をのんびり食べて生きている。
なぜ人間だけが、わざわざ余計な時間と労力をかけて調理などというまどろっこしいことをして、そのために心の余裕を失わなければならないのだろうか。
だからしばらく前に、カプセルを飲むだけで栄養源が取れて食事をしなくて済むソイレントという画期的な商品が出てきた時は本当に心が踊った。
そういうものがあれば、私たちは食事を作る手間と片付ける手間が省ける上に、消化に無駄なエネルギーを割かなくても済むようになる。
それが人類のスタンダードとして市民権を得ていけば、日々料理に拘束されている膨大な時間を開放することができ、まさに革命的な出来事になるだろう。
まだ商品としては不完全なようだが、今後の開発が進んで実用的なものになってくれることを待ち望んでいる。
そうなれば、料理なんてものは好き好んでやりたい人間だけがやるような高尚な趣味に置き換わっていくはずだ。
レシピを考え、必要な食材を吟味して調達し、それを加工するための器具を揃え、熱や電気を使い、時間をかけて調理し、きれいに盛り付けてテーブルに並べ、食べ終わったら後片付けをする。
しかも、この一連の膨大な作業は、料理スキルが一定以上なければまずいものが出来上がるだけで全て無駄になってしまう。
冷静に考えて、日々生活の上で必ずしなければならないこととして、料理はあまりにも過剰な負担と言うべきなのではないだろうか?
最近はクラシルなどという新しい動画レシピサービスの広告を見るが、あんなに楽しそうに料理ができる美人主婦なんて空想上の生き物、完全にファンタジーだと私は思う。
なのにどうして私たちは料理から離れることができないのかと言うと、それが社会通念上健全な日常生活の一風景として規定されているからに過ぎない。
今は昔のように、男が稼いで女は家のことを黙々とこなすという生活様式ではなくなった。
だから私たちの考え方もそれに合わせて変えていく必要があるのだと思う。
わざわざ寒い冬を選び、高速を飛ばして都会から離れた山まで行き、年に数回しか活躍の場がない用品の手入れをして、お金を払ってリフトに乗り、怪我や最悪遭難、転落死などのリスクを抱えながら、わずか数分の滑走を楽しむ。
興味のない私からすると、準備の困難さから時間の経過まで、まるで料理みたいなもんじゃないかと思ってしまう。
そういうことを、私たちが日常生活の中に組み込んでおく必要性がどこにあるのだろう。
人間が生きるために必要なのはエネルギーであって、料理そのものではない。