うん、その何を間違いとするのかに段階があるよね。という話。
詩人(天文学者)はすべての、物理学者は一つの、数学者は少なくとも一面が、哲学者はそれは羊なのか。
それぞれに求められる段階の厳密さで話をしてる。
中学校の国語と、大学の論理学で求められる厳密さは同じなのだろうか?
「書いていないことはないものとする」という公理(その段階が浅いかどうかは別にして)を前提にした正当な論理はあるのではないか?
例えば、大学入試で三角形の内角の和を問う問題で、曲率0(ユークリッド空間)であることを明記している問題を見たことはないよ。
それを書いていないことを慮る忖度と言っても間違いではないし、前提を疑える可能性はあるけれど、その厳密さは国語に限らずどの教科でも求められてはいないよね。
すべての問に対して、「回答できるほど厳密でないので不定」という答えは誰も望んでない。
と答えないのと同様に
>サンサンポというマニョルは茫便がつながってできたモロロを分解するが、同じ茫便からできていても、形が違うサンサンマーロは分解できない。 いや、これだけじゃわからないで...
モロロと同じ茫便から作られ、形が違うサンサンマーロと、 モロロと同じ茫便から作られ、形も同じ(だが他の要因で区別される)サンサマーロが存在するかもしれない この一文だ...
だから国語はダメなんだよなあ 書かれていないことはないこと・・・みたいな、非論理的で視野狭窄な、儒教的な、いかにも日本人みたいな考え方しか出来なくなるのは国語のせい
横増田だけど、 モロロと同じ茫便から作られ、形が違うサンサンマーロと、 モロロと同じ茫便から作られ、形も同じ(だが他の要因で区別される)サンサマーロが存在するかもしれな...
俺が知らない相田になんか盛り上がってたみたいだけど、俺が言いたいのは「何が正しいか」という話じゃなくて 「何を間違いとするか」という話なんだよね 間違いとする根拠が「空気...
うん、その何を間違いとするのかに段階があるよね。という話。 詩人(天文学者)はすべての、物理学者は一つの、数学者は少なくとも一面が、哲学者はそれは羊なのか。 それぞれに求め...
は? 書かれていないことはないことは国語ではなく論理の大前提だが