2017-08-12

議論が苦手な理由

温厚。冷静。敬意。寛容。客観。公正。と、頭の内では分かっているのである。初めのうちは。

しか議論が進むにつれてその幻想は打ち砕かれていく。

議論といっても、実際には公理のすり合わせから始まる。

議論の前提を共通認識として一致させなければ議論にはならない。

だが多くの議論は、この過程が果てしなく長い。それはもう長い。しんどい

出典や認識の相違など、重箱の隅を楊枝でほじくるように確認しなければならない。

長い間そうしていると、議論のための下準備だったはずが、だんだん知識教養によるマウント合戦に思えてくる。

お互いに無知を暴き、責め合っているかのような体験

このあたりで多くの人は語気が荒く、皮肉も混ざり、この相手議論に足る相手だろうかと疑心を抱き始める。

地道な作業精神を消耗し、議論相手が敵に見えてくる。

お決まりパターンなのだ。具合が悪ければ、そのまま人格攻撃に移行し物別れに終わる。

よしんば踏みとどまって、たしかに我の勉強不足であったと認めたとしよう。

それでも人の心は素直にいかない。人はそれを譲歩とみなす。

これがどういうことを引き起こすかといえば、「私は誤りを認めたのになぜあなたは私の意見を聞かないのか」ということである

議論として考えるならば、それは誤りを正したというだけであり、その後の意見賛否には関係のないことである

しかし人は自分は譲歩したのだから相手も応じるべきであるという期待をしてしまう。

無意識のうちに議論交渉が入れ替わっているのである

そして議論は当初の崇高な目的を見失い、互いの誇りをかけた撤退戦が始まる。

はたして議論を成し遂げたひとはいるのだろうか。

はいまだ議論の果てを知らない。

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