昨年、友人が亡くなった。
お葬式では、讃美歌を歌いながら泣いた。
故人の経歴というものも聞いた。
「人の一生を紹介するには、20年間というのは短すぎるんだな」とそのとき思った。
私はまだ20代前半で、同年代の友人の死に未だに現実感が沸いていない。
友人たちにお葬式の連絡をするときも、「そうだ。○○(友人名)にも連絡しなきゃ。」
と考えてる有様だった。
それは参列した他の友人や知人たちも同じようで、慣れないスーツに身を包む彼らはぎこちない様子で、
初めて1人で来たお葬式に戸惑っているようだった。
お葬式で涙を流すだけ流した私は、それ以降彼女の死を思い出して泣くことはなかった。
たった数分泣いただけって、自分は薄情なのかなと思う。
けれど、インターネットがあってリアルタイムに連絡を取るのが当たり前のこの時代では、
そう思い込むというのは無理な話だった。
いくらLINEをしても既読すらつかないし、彼女のtwitterのページは新しいツイートを表示しない。
ここ一年、生活の折々で彼女の死を思い出すような生活を送っていた。
でもやっぱり私は薄情なのかもしれない。
ちょうど一年前のこの日この時間は、彼女は生きていたという、そんな事実も遠い過去のような気がしてしまう。
もうすぐ彼女の誕生日だけどお祝いもできないのが悲しくなって、増田に書いた。
お誕生日に仏花なのもあんまりだから、チューリップとかそういう可愛いお花を供えたいけど、
お墓も知らないし、かと言って、初盆も迎えてない彼女の実家に送るのもつらいし。
やっぱり悲しくなってきた。
そなたは十分である。
別れた彼氏宛に投函しない手紙を書くのと同じイタい行為です https://anond.hatelabo.jp/20170713023536
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悲しい話やね。 今時はどうなんだろう、線香をあげに行くことも難しい時代なのだろうか。