2017-06-14

[] #27-1「ファイナルアンサー

母が以前の同僚から悩み相談を持ちかけられたときの話だ。

正確には母とは別にもう一人いたらしいが。

相談の内容自体は何てことはない。

いや、傍から見れば極めて個人的な内容で、相談されたところで答えるのが難しいものだった。

知り合いとはいえ所詮他人なのだから、言えることも限られている。

それでも母のすごい所は、自身サイボーグであることをここでも存分に活用している点だ。

母の体内に搭載されたメモリーボードは、脳で思考した様々な事柄を高速で処理し、綺麗に整頓していく。

こうして導き出した母の回答は、実に理にかなったものだった。

物事客観的分析し、社会通念上の是非を踏まえた上で、かといって角が立たないように穏和な口調で、くれぐれも強制しないような論旨で、理路整然と合理的アドバイスをしたのである

しかし、もう片方の人の回答は、お世辞にも良い解答とはいえなかった。

主観的判断が多分に含まれており、口調も強めで断定的な物言いと、傍から見てもどちらの回答が論理的かつ優れているかは明白であった。


数日後、同僚はおかげさまで悩みが晴れたらしい。

この“おかげさまで”というのは、母ではなくてもう片方の人を指す言葉だったが。

ネタバラシをすると、元々その人は母ではなくてもう片方の人に相談していた。

そして、その同僚と本来相談相手は互いによく見知った中で、一見強引にも感じた回答は相手事情や心情もよく分かっていたためであることが後に分かった。

母はその場に居合わせオマケだったのだ。

そもそも悩みというものは、相談する段階で当人の中ではいくつかの「どうすればいいか」は既に出てきている。

しかし様々な動機欲求感情が渦巻いて身動きがとれない状態なのだ

そこから解放なり弛緩を求めるが故に、人は時に他人に悩みを吐露する。

いくら理路整然として、客観的に見れば尤もな言動であったとしても、それで相手に寄り添えなければ一人よがりなのと変わらない。

母は後にそう分析した。

「私は自分が間違った回答をしたとは思っていないけど、最終的な結論を出すのは相手からもっともらしい、取り繕った言葉を良いと思っていたのは言われた相手じゃなくて、それを言っている側だけだった……ってことなのかもね」

そう言って話を締めくくる。

しかし納得がいかない俺は、母がその人の気持ちちゃん理解できる関係性だったら、また違ったんじゃないかと尋ねた。

母は自嘲気味に苦笑すると、こう答えた。

「どうかなあ。悩みって、心の中に色んなものが渦巻いて生まれものから。何がベターか分かっていて、実際に選択できる意志があるなら悩まないもの。“悩みなき者”に、本当の意味他人に寄り添える言葉をかけることは難しいのかも」

母は儚げにそう語るが、そこまで寂しそうには見えなかった。

それも母が自分を“悩みなき者”と称する理由の一つなのだろう。

身内びいきするわけではないが、母のアドバイス姿勢も含めてベターものだったと俺は思う。

だが、それがベストになるかは、また別の話なのかもしれない。

(#27-おわり)

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