せっかくポッポと小沢が居なくなったんだから、枝野にすればよかったのに。
田中角栄の時代から、自民は支持団体に甘い汁吸わせすぎなんだよ。
民主党が与党だった時に、売国奴って罵る人多かったけど、今となっては甘い汁吸えなくなるのが嫌だったんだなーとしか思えないね。
左翼はそれよく言うけど、安倍の発言だけを見てると、そうは思えないのよね
アサヒとかが発言に尾ひれ付けてそう誘導してるようにしか見えない
前任者がいなくなって後任として指名されました。
ダイイングメッセージを読み取る毎日です。ミイラとなった成果物を見つめる僕はさながら考古学者です。
パニックと戦う毎日です。クトゥルフ神話もののTRPGのようです。
きっと僕が倒れたらまたあたらしい人が来るのでしょう。屍の山の上の楼閣のような仕事です。それはジェンガのようなバランスで辛うじて立っています。
世の中の仕事はこんなバランスで成り立っているのでしょうか。ゴールデンウィーク久々に会った知人は世の中のあらゆる研究は数多の犠牲のうえに成り立っているのだと言っていました。彼の専門はライフサイエンスです。
日本の大将乃木サンデーと習いました。中学の英語の時間です。日曜日の覚え方です。明後日は日曜日です。明々後日は屍です。いずれはみんな死んで地球も太陽もちがいがわからなくなるのですからすべては誤差です。
『オタクはなぜ服装が残念な感じになるのか 趣味に投資しすぎてファッションにお金が回らない』(https://news.careerconnection.jp/?p=34965)を、読んだ。
僕もこの件については思うところがあるので、書きたいと思う。
ちなみに以下の本文では、こんな奴が、持論を展開している。
・僕は(アニメゲーム)オタクである。但し、「けもフレ面白かったね」とかの話をしてもあまり理解されないのを知っているので、この手の話はリアルでは一切しない。なので周囲からは、オタクとしては扱われていない。
(実際のところ、周囲の人が心の中で僕をどう思っているかは別として)
・以前、服を買う時に重視していた事は、着回のし易さ、コスパ、機能性であった。ファッション性や色使い、デザインみたいな部分は考慮しないことが多かった。現在は多少これらを気にする。
・服飾には<ある程度>お金を掛けても良い、と考えている。<ある程度>の最近の基準値はユニクロである。あくまで基準値で、当然これより安いことが望ましい。
・なので、服飾に、一切あるいは限界ギリギリまでお金を掛けたくないという人は、この記事ではあまり対象にしていない。
もし、このタイトルを読んで「俺は、センスなんてないから関係ないや」と思う人がいたらちょっと待ってほしい。
センスは「磨かれる」ものであって、最初からみんながみんな高いセンスを持っている訳ではない。そして<磨き方>は難しくないという話をする。
また「ファッションにもう少しお金をつかおう」という話をする気もない。
センスを磨くのに、お金を使う事は有効だが、必須ではない。この記事ではそういう話はしない。
話を戻して
これは当然のことで、外見に気を使っている人は、それまでのセンスに蓄積がある。
どういうことかと言うと、例えば、服装に関して気にする人で言えば、服を買う時にも色々考えるし、着ていく服を選ぶ時も色々考えているし、他者の服装を見ても色々考えている。これらの過程でセンスが磨かれていく。
こうした人たちと、「とりあえず着れるものを着る」という服装に全く興味が無い人たちの間で、日に日にセンスの差が広がっていくのは当然である。
でも、僕が言いたいのは、オシャレのセンスを磨こうとか、ファッションのセンスを磨こう、とか、そういうことではない。これらにまったく興味が無い人もいるだろうから。
そこで僕が、残念な服装を改善する一つの策として提案したいのが、「他者から自分がどう見えるか?を考えられるセンス」を磨くことである。
(このセンスの必要性は、服装だけに限らないが、この記事では服装に限定して述べる。)
ファッションセンスを磨くことは、あなたが興味が無いかもしれないし、またそれが役立つ保障もできない。
しかし「他人から自分がどう見えるか?を考えられるセンス」を磨くことは、あなたが現在、あるいは将来において、多数の他者と関わる可能性が高い場合、役立つ機会は多い。人の見た目は案外、重視されるからだ。
このセンスがあると、どう役立つかというと、服装に関しては大きな失敗をする機会が減少する。そして、このセンスが高まってくると、状況に応じて、残念な服装を回避し、無難な服装を選択できるようになる。
なお、「全身ユニクロ」や「目立たない色使いで無地な服で固める」等は、かならずしも無難とは言わない。
これらの服装は他者から「服を選ぶことを放棄している、あるいは自分で服を選ぶ能力が低い」と見做される場合がある。このような誤解を他者から受けるのは、決して無難な事ではない。
こういった服装を、いつ何時でも、無難だと思っている場合は、自分の(他者から~略)センスの見直しを検討してほしい。
服を買う時にも色々考えて、着ていく服を選ぶ時も色々考えて、他者の服装を見ても色々考えればいい。
全部やらなくても、どれか一つでも意識するだけで、センスは磨かれる。
日常生活でこれらのことを1秒たりとも考えるヒマがないという、多忙な人は仕方ない。しかし他者の服を見て自分がどんな感想を持つかくらいは、ひとり頭なら5秒もあればできると思うので、比較的多くの人に推奨できる。
あとは、服装に注目する時の、僕なりのポイントを4つ挙げておくと、清潔さ・サイジング・色使い・TPOである。最初はこれら4つの観点から、なんとなくの感想が持てれば良いと思う。
また、注意点として
「他者からどう見えるか」であって、「自分がカッコいいと思うか」ではないことに注意してほしい。
極端な例を挙げると、アニメのキャラクターに憧れてマネするケースだ。
僕はアニメオタクなので、アニメのキャラクターをカッコいいと思う気持ちは、痛いほどよくわかる。
実際、アニメキャラの服装は(アニメ劇中に限定して言えば)、サイジングや色使いが優れているものが多い。
日常的な生活をしている僕らが、非日常の中で生活しているアニメキャラのマネをしたら、それはコスプレである。コスプレは普段着ではない。
ちなみに
他者からどう見えるか?のセンスを磨いたら、すぐ残念な服装でなくなる訳ではない。磨き方は簡単だが、磨き上げるには時間が必要だと思う。
こんなことを書いておきながら、やっぱりセンスが乏しい僕は、まだ残念な服装かもしれない。
服装や、他者から自分がどう見えるか、に一切関心が無い人がいる。
僕もどちらかというと、関心が低いタイプだ。
人目を気にしてばかりいても、息苦しいし、つまらない。
だから常に「他者から自分がどう見えるか、を考えた服装にしろ」と言うつもりはない。
そもそも、考えられないのと、考えられるけど無視する、のでは全然ちがうと思う。
要するに、服装の観点において、自分に関わり合いがある人の気持ちを、多少考えてみてはいかがだろうか、というご提案の話でした。
以前の僕は、この考えすらなかったので、同胞がいれば、そして、少しでも役に立てばと思い、ここに記す。
「型があるから型破り。型が無ければ、それは形無し。」
おっさんが若い女の手首掴んで「この人痴女です、警察に突き出してください」と言っても認められるはずだ。
たとえ物証がなくても、被害者の証言を最大限に尊重するのであれば。
どんな不細工なおっさんであっても痴女に遭う可能性が全くないとまでは言えない以上、証言が認められるべき。
未だにプログラミング教育は一体、何が目的で最終的にどうなれば教育の成果として評価されるのかがわからない
教養として学ばせるにしてもその教養がどう社会に活かされるのかがはっきりしない
文部科学省から必修化が発表された時はIT業界の人材不足の解消が目的で考え方とか教養より
しばらくして「教える人がいなくね?」とか「教育体制どうすんのよ?」と意見が出始めてからいきなり
「技術じゃないよプログラミング教育を通して論理的思考を身に着けるのさ」
と言い始める人が増え始めた
さらにしばらくすると教養としてのプログラミング教育の大切さが説かれ始めて
「今は教養としてプログラミングを学ばせる時代だからプログラミング教育をするんだよ」
と言う意見が出始めた
ここまで来て未だに主な目的と最終的な成果が何なのかが曖昧なままである
IT業界ではシステムの要件や仕様が曖昧な状態でスタートするプロジェクトが失敗プロジェクトになりやすい