20世紀は公共交通一強の時代が長く続いた。交通手段は公共交通こそが超大国だった。世界からも評価される、エコ、経済的、バリアフリー…多くのヒト・モノ・カネが鉄道界隈に集まり、鉄道を中心に都会が動いていた。この流れからの大転換が日本人のポスト主義化だろう。
新自由主義を掛け声に、公共交通の破壊が蔓延する。貧民の末裔が権力を手にした公共交通はあまりにも汚物の象徴になってしまいそうだ。その一方で、自動車・バス・オートバイの躍進はそれを象徴としていて、過去には暴走族があったが日本人の努力によって脱却している。
都会の宝、交通の象徴という特性をより伸ばしていくことで発展を続け、世界中の人に優れた都市交通の手本を示し続けた日本だが、逆に言えば、その普遍的なテーゼを失ってしまえば価値は大きく低下することになる。鉄道だけとっても他の国の方が優秀そうで、利益と公益のバランスが取れているように見えるのが、事実だ。
今はまさに分岐点を通過した直後だが、今後はさらに鮮明になりそうな気がする。日本の私鉄がそのまままるごと公営化されたりとか、自転車であふれている都会の繁華街などが、いつの間にかバスやオートバイに変わったりとか。日本の古きよき光景も変わることになる。
2010年代以降のメインカルチャーがまるで低迷する一方、今日繁栄する文化には共通点がある。どれも経済成長期に台頭した文化だということだ。自動車やオートバイだけではない。たとえばオタク文化なんかまさにそうだろうし、特に、漫画やアニメが目覚ましい発展を遂げた。
最近息を吹き返した据え置き機ゲームも、ソシャゲと言われているオンラインゲーム台頭前は主流だったし、日本の大衆ゲーム文化も京都の花札屋が原点にある。素晴らしいゲームは一見の価値があるので、中古ショップやオンラインで買って一度遊ぶといいよ。
急激な経済発展を遂げている商業出版界隈だって高度経済成長で多様化した。太田出版と言えばサブカルチャーのイメージで、過去には完全自殺マニュアルの苦い歴史があり、元少年Aの出版を引き入れたと言われてはいる。しかし、それを除けば普通のサブカルチャー本ばかりだ。
すべては「高度経済成長のまいた種」である。日本の文化自体がそう。たまたま20世紀には、メインカルチャーが一強構造だったが、21世紀にはそれがサブに、下層に、未知の領域にすら分散しているということ。これをどう付き合うか、私たちも考える必要がある。
同人誌販売やオートバイを利用する若者は今では当たり前だという。いずれも昔は有り得なかったものだ。今でこそ中高生でもできるような商業本デビューやアプリ作成も昔なら不良文化(私の父が高校時代小説出版で当時のお金で何十万円数百万円かもらって停学になりかけたことがある。)で、そのイメージを払拭したのが1980年代~2000年代の若者たち。これが今の現実の礎を築いたんだろう。