見てなさそうなジャンルを紹介しとこう。
30代後半に突入すると新しいことを覚える能力が低下するのは事実なんだと思うが
それを開き直るオッサンとそれでも頑張るオッサンで40になる頃には明確な差が出てくるんだと思う
頑張るオッサンは無能でも職場で好かれるしなんだかんだで頼りにされる
例えば職場に英語ができないことを開き直るオッサンがいるんだが
「英語なんて分かりにくいだろうーが!日本語にしろ!せめてカタカナだ!」
って怒りだして完全に哀れな目で見られてる
最近Google翻訳のアプリを入れて写真撮ってニコニコしてた
他にも技術系一筋(もう時代遅れの技術だけど)のオッサンがいるんだけど
営業部との交渉毎を少しでも覚えてもらおうと営業部にメールしてくれって言うと
「それを私がする意味があるんですか?どうしてですか?」
みたいにゴネて結局誰かにやらせる
まぁやらされてるのが頑張るオッサンなんだけど
頑張るオッサンはビックリするぐらい丁寧なメールを送ったりしてるうちに
なんだかんだで営業部でも名が知られてる
開き直るオッサンに共通してるのはWindows 10を頑なに拒否していて
「WindowsはXPでよかったのにバージョンアップしてどんどん悪くなってる」
「Macは英語が多すぎて使いものにならん!日本で売るんだから日本語にしろ!」
頑張るオッサンに4本指でスクリーン切り替えられることを教えてやると半日ぐらいそればっかやってた
彼らの給料は知らないんだけど
仮に同じぐらいの給料だとしても頑張るオッサンの方が楽しそうだし
そういうオッサンに俺はなりたい
久しぶりに彼女を見た。8年ぶりくらいな気がする。
ニュースのなかでは随分と彼女が叩かれていた。彼女をよく知っている人間からすると、また彼女にやられたんだと感じた。
彼女と知り合ったのは8年以上前だと思う。当時からイケイケでその美人過ぎないチャーミングさは女性経営者のなかでも魅力的だったと思う。
当事から自意識過剰、自己中心的で、典型的なB型女性。積極的ではあったが、とても打たれ弱かった。
彼女とはある会を通して出会ったが、すぐに魅力的に思ってしまった。今、考えると、自分も若かった。
お互いすぐにのめり込んだが、大きな価値観の違いに気づくのに時間はかからなかった。
彼女とは毎日のようにビジネスの話やご飯を食べ、何回か旅行にも行った。
彼女はコンプレックスを跳ね返した目立ちたがりや。社員の給与が安くても、自分は銀座の超高級マンションに住んで、グルメ三昧していた。
考察班員「VS CodeにTablrみたいなやつが来たけど、このスクショ。つまり主体がMicrosoftか否かにかかわらず、Windowsのエコシステムは神エクセル的なものに最適化されているという現状を表しているのではないか」
文系は作者の気持ちでも考えてろよwwwという文系に対する典型的な煽りがある。
元々がネタスレ気味な2chのネタなので、「マジレス」するのもどうかと思うが、「本当に文系は作者の気持ちを考えているのか?」について書いてみたい。
これについて書こうと思ったのは、以下の記事を読んだのがきっかけである。
http://honeshabri.hatenablog.com/entry/philosophical-friends
いずれにおいても、根底にあるのは、作者・製作者の意図・気持ちを考察することこそが重要という発想ではないだろうか。
しかし、少なくとも現在の文学において、作者の意図・気持ちを推測・考察することはそこまで重要視されていない。
現在では、神としての作者の意図を探るのではなく、主として、作者から離れた作品そのもの(テクスト)から何が解釈できるかが論じられるのである。
(いわゆる「作者の死」。ここら辺の議論はロラン・バルト以降、色々と展開しているけれど面倒なので省略する。)
この考えのもとでは、文系は作者の気持ちを考えているのではなく、「制作者はそこまで考えてないと思うよ」というツッコミはあまり意味がない。
制作者がそこまで考えてなかろうが、作品自体からその解釈が成り立つなら、その解釈は「アリ」なのだ。
判断方法としては、ざっくり言えば、作品の内容と整合するかを基準として、その解釈が支持を得られるか、という多数決的な方法しか取り得ない。
文学における解釈とは、このようなルールのもとでのゲームとも言えるだろう。
もちろん、作者の意図を探る、というルールのゲームも可能ではある。
しかし、個人的には、それよりも作者の意図を離れた解釈を論じるゲームの方が面白いと思うし、そちらが主流なのだ。
では、作者の意図は解釈と全く関係ないか、というとそうでもない。
作者は、あえて明確には表現しないことにより、解釈の余地(穴埋めの余地)を持たせることがある。
受け手がそのような作品の解釈をすると、作者がこっそり埋めた宝物を見つけることができるのである。
分かりにくすぎては解釈しようがない。
優れた文学とされるものは、この宝物の隠し方が上手いものが多い。
現代日本において、これを最もうまくやってのける作家の一人が村上春樹だろう。
もっとも、作者が整合的な解釈を想定せずに作品を作ることがある。
新世紀エヴァンゲリオンがこれだと言われており、上述の村上春樹も、ねじまき鳥クロニクルについて似たような批判がされたことがある。
作者の意図する整合的な解釈を求める立場からすれば、このような行為は、作者の裏切りにも思えるかもしれない。
しかし、作者の意図と無関係の解釈をする考えであれば、そんなに目くじらをたてることではないのではないかと思う。
もっとも、そのような作品に(作者の意図しない)面白い解釈が成り立ち得るかは別論である。
以上に述べたことから分かるように、たくさんの人がけものフレンズについて考察をし、その考察がある程度の人に受け入れられているのであれば、制作者がどこまで考えているかはともかく、その解釈は(文学的に)アリなのである。
だから変な雑音に対する惑わされずに、考察班においては、思う存分考察をしてほしい。
けものフレンズは見たことがないが、切にそう願っている。
検数(けんすう)は、港湾荷役における積荷・揚荷の数量を調べる仕事である。
どのような貨物(品名、荷印、荷姿、荷番等)を、どれだけ(数量)、どのような状態(損傷の有無)で受け渡したかを確認し証明する。
検数を事業として行うには、港湾運送事業法に基づき「検数事業」として、国土交通大臣に許可を得なければならない。
不公平が生じないように、原則として本船側(シップサイド)と荷主側(ドックサイド)で別々の検数業者を立てなければならないとは
かならずしも言い切れないかもしれない。
日本では本船荷役のコンテナ化にともない、その業務は本船荷役での立ち会い以外にも倉庫の入出庫、コンテナヤードのゲート搬入出時の
俺はオーク族に生まれた。
いや、ファンタジーの話をしているんじゃない。舞台は現代日本だ。
俺は身長が低く、豚鼻で、がっちりした体格だ。テラフォーマーズの総理大臣をもっと下品にオークっぽくしたような感じだ。太っているが、相応に筋肉もついている。昔、ドラゴンクエストのアニメがあったんだけど、それの戦士のモコモコを見て「俺みたいだなぁ」と思った。まぁモコモコのほうが数段イケメンだけどな。俺はあくまでもオーク族だ。
オークがいくら努力してもエルフにはなれないように、さすがに俺の努力は限界が来た。まぁもっと努力すべきだったのかもしれないが、ある程度のところで俺はあきらめた。さすがに毎朝鏡を見てりゃ「これはだめだな」と思いもする。高3で大体あきらめた。結構頑張ったほうだと思う。オーク族はだいたい、中3くらいで己の人生を悟るらしいからな。オーク族のほかの者との会談で判明したことだ。
オーク族はファンタジーやエロゲのように群れることはない。単純に生息数が少ないからだ。それはそうだ。オーク族の生殖能力は極めて低いからな。俺たちは牙を抜かれたオーク族。残るは豚鼻と突き出た腹だけだ。これが現代のオークさ。まったく悲しいな。雄たけびをあげてエルフの村を襲撃してみたかったぜ。でもそれは犯罪だし、多分普通にエルフに撃退されるからな。
オーク族としての生き方が板につき始めた大学3年の時、俺の前に女騎士が現れた…といいたいところだが、現代の女騎士はオークの前に姿を現すことはない。それはそうだ。だって、現代のオークは村を襲わないからな。村を襲わないと女騎士には出会えないんだ。たまに村を襲うオークがいたりするが、そういうときは女騎士に出会えるな。裁判所って結構、美人さんが出入りしてるぜ。エンブレムを胸に付けた女騎士。で、法廷で女騎士に裁かれるわけだが、法治国家の牙なきオークはそれ以上どうしようもないわけだ。いや、俺は女騎士に裁かれたことはないぞ。一時期裁判の傍聴が趣味だっただけだ。
で、俺の前に現れたのは、女騎士でなく女バードだ。適切かどうかわからんが。ようするに、絵のモデルになってくれと美術系の学生に頼まれたんだ。
現代においてオーク族は希少。ゆえに絵画的価値があるというわけなのだろうか。確かに、冷静に考えると、オークというものは一定のイメージはあるが、実際に身近にオークを感じる人はなかなかいない。俺も同族となかなかすれ違わないしな。
そこへくると俺などはまさに絵にかいたようなオーク。そんな俺を絵に残そうというのだ。これは面白い。俺は承諾した。
正直、まぁ、期待するよな。オークであっても、やっぱ、期待しちゃうだろ。実は俺のようなオークが好みの希少生物が存在していて、俺に好意を抱いているのを「絵のモデルになってくれ」という言葉に隠して接近してきているのかも、とか、ファンタジーをさ…追い求めたく、なるだろ?少なくとも、ほんの少しの希望を抱いた俺が存在することは、理解してもらえると思う。
あとにも先にも絵画モデルなんてものは初めてだったので、これが普通なのかどうかは全くわからんが、美術室で半裸の俺を囲んで数人が絵を描く、ということを何度かやった。その子は俺の正面にいた。さすが美術系というか、まぁ俺の偏見なんだが、顔立ちが整っている子が多かった。整っていながらも「普通の美人」ではない雰囲気を醸し出してるのも美術系っぽかった。
あ、前後するけど、俺がモデルに選ばれた経緯は、ラグビー部の先輩がその子と知り合いで、「絵のモデルにちょうどいいガチムチがいる」ということで紹介されたんだ。…まぁ普通に、「クリーチャー知ってっから紹介してやるよ!」っていうノリだわな。悲しくなってきたぞ。
で、オークを囲んだ…なんていうんだ?写生とも違うよな?こう、絵描き会?が始まったんだが。当然のごとく、ファンタジーはないわけよ。その子は最初から最後までクリーチャーを観察する鋭い視線のままだったし、周囲の個性的な美人さんたちもオークの筋肉の分析に余念がないというわけで。実はその子は俺が好きだったというファンタジーもなく、オークが美女を囲むという定番のファンタジーもなかった。
それで、何度かやって戦闘は無事に終了した。完成した絵は見せてもらってない。
それで俺の話は終わりだ。現代のオークの伝承はこんなもんだ。すまんな。
グダグダと書いてきたが、何が言いたいかというとだな…まぁ、なんだ、不愉快に思われるかもしれないので、先に謝っとくけど。なんだろうな、若くて才能のあるエルフがさ、オークを支援したり、絵のモデルにしたりするのって、なんだかすっごいモヤモヤするんだよ。もちろん、理性ではわかっている。容姿なんて関係ない。弱者を支援するのは素晴らしいことだし、芸術に容姿は関係ない。わかっちゃいる、わかっちゃいるけどさ。
https://news.yahoo.co.jp/byline/mizushimahiroaki/20170227-00068135/
読んでさ、「ドキュメンタリー作品を撮ったことがある教え子の女子大生のNさん」の写真を見たわけよ。女騎士だなぁってな。いや、騎士じゃないか。バードなのか?そんなのはどうでもいいが。美人だよな。それがさ。すごく、オーク的に、なにか、モヤるんだよ。もちろん、オークは女騎士に討伐されるべきとも思わないし、逆襲すべきとも思わんけど。
結局ファイアーエムブレムヒーローズが大した話題にならないということ自体が、失敗を物語ってるよね。
だってさ、性欲あるだろ、大体の人は。(もちろん、例外もいることは承知ですよ)
結局さ、ただ気に入らないだけ。気持ち悪いだけ。
そういう感情を「性的搾取」だの「性犯罪予備軍」だの、自分の言ってる事が“あたかも”正当であるかのように喧伝してるだけ。
結局、感情なだけで、其処には何の理念も理論もない。ただ、「私は性的に潔癖で汚れのない人間です」と言いたいだけ。
もちろん、好き嫌いだってそれを表明することは構わないさ。感情だって発露したいだろうさ。
男どもが性的な(そして未成熟な)話題で盛り上がってたからって、別に構わないじゃないか。
漫画やアニメのエロ画が気持ち悪いからって、それを搾取だの何だのって話に持っていって良いの?
オナニーは悪?そんなわけないだろ。
そして、オナニーの話題が端からみたら気持ち悪いからって、それを性的に搾取だとか「正義を振りかざす」ようなことで否定して良いの?
単に気持ち悪いだけだろ?
最後に。
俺は漫画やアニメのエロ画云々に対して何か思い入れがある訳じゃない。
ただ、性的な事柄を十把一絡げに「性的搾取」だと言う『正義』を大上段から振り降ろす、ある種の「性嫌悪」や「純潔至上主義」が“嫌い”だから、ここまで書いてきた。
うん、以上。
その視点からみえる風景が自分のみてる風景と違うから面白いんだよ
シンゴジラも実写映画パディントンくらいのカメラの目線の高さで子供の身長から
君の名はも自分の目線からぱいおつ発見つかむであります!とかして
楽しんだんだよいい大人たちが
何のために生きるのか、何が楽しくて生きるのか、人生の目標は何か。
色々な問いかけ方があるけれど、肩肘張らずに「そんなもんねーよバーカ、生きてるから生きてるだけだっつーの」
って言えたらいいのにな。
変にクヨクヨすることが多くて困る。
スマホではてブ記事をたどってる最中、時々誤タップしてして登録されてしまってウザいんだがあれ何とかならんのか?
全然読む気がないページをブックマークしてしまうだけじゃなく、わざわざ別の「あとで読む」ページにまで登録されてしまう。
マスコミ批判ってのは、批判者に「あるべきマスコミの姿」が当然あるわけだ。
マスコミのあるべき姿ってのはあるのかね。
マスコミの歴史的経緯や、その影響力に鑑みて、何かしらの使命が導かれるのだろうか。
研究者なら格別、マスゴミと日々マスコミを罵っている人々は、その点明確になっているのだろうか。
放送法4条にしても、その形式的な文言だけでなく、実質的な趣旨からの比較衡量を経た解釈を志向できているだろうか。
自分にとって都合の良いマスコミ像を前提としてはいないだろうか。
影響力が大きいのであるから、恣意的な運用は許されないというのは分かる。
それなら、マスコミの自助努力を促すだけでなく、自分たちでマスコミの評価機関NPOでも創設すればいい。
偉そうなやつを叩きたいだけだよなぁ……
最近だと、学校や園の行事を撮影禁止にするところはけっこうふつうにあると思う。そういう意味では、特殊ではないと思う。
そういうこと以外では、相当に特殊なことをなさっていると思うけどね。
sleipnir mobileを使ってる。ついっぷるランキングとか、はてブアプリとか、別のアプリをRSSみたいに使ってて、詳細はこのブラウザで見て、ブックマークレットでツイートするか、増田にトラバするのがここ5年間ぐらいの日課だった。
半年前に携帯を機種変更してから、sleipnirがクラッシュする頻度が爆増した。3回に1回は必ずクラッシュしている。
惰性でそれでもずっと使い続けていたけど、もういい加減クラッシュするのだるいから他のに変えたい。以下要件。
・タッチジェスチャーが存在する。カスタマイズはできなくてもいい
・フルスクリーンでブラウズできる。俺は常にフルスクリーンでしてる。
私のベーシックは、スマブラ含めソフトが3本入っているぞどや。
スマブラもピクミンも、ヨッシーのウールワールドもできてしまうんだぞ???
それはさておき、
インストールに必要な容量には作業スペースもカウントされているらしく、実質的な容量よりやたらとでかい。
今回スマブラを更新するには1.7GB(=1700KB)必要で、まあそんな残っているわけもなくあきらめかけていたのだが、この
260: 774%まで耐えました :2016/02/04(木) 11:08:08 ID:aKs5NKb20
カラオケソフト起動したことない人はとりあえずカラオケ起動しろ
するとデータ管理画面にアイコンが出るからカラオケソフトを根こそぎ削除できるようになる
一度も起動してないとなぜかデータ管理画面からソフトのアンインストールができないのは盲点だったわ
俺はベーシックだけどこれで容量足りたわ
のおかげで、ベーシックでも更新データ入れられた。ありがとう雑談スレ。
気づくまでの流れが好きだから、よかったらのぞいてくれ。
リンクを貼っていいのかよくわからんから、「スマブラ 雑談スレ part36」で検索よろしく頼む。
ちなみにカラオケ以外の内蔵ソフトは、ニンテンドーeショップのマイメニューにある購入済みソフトから確認できるぞ。
あと更新するには1.7GBと書いたが、夢中でやっていて前の更新データ消して一括でやったから、消さずに追加できるのかはわからん。
一括だと3GB超必要で、更新データ自体は2685KBだった。
それから中古でパッケージ版買ったから、DL版購入勢はわからん。
根こそぎ削除試しても足りなかったら大人しく外付けHDDか32GBくんを買いに行け。
ちなみにUSBメモリはフラッシュメモリで劣化するタイプのものだから、読み込み回数に制限があって、数年でデータ消えるらしいぞ。
単純に考えれば入るはずなのだが、ピクミンもデータ更新には700KB必要らしい。
対戦しないし更新しなくていいじゃん、と思ったのだが、WiiUは許してくれなかった。なんでや。
そこで臨時の作業スペースを用意することにした。手持ちのUSBメモリくんである。
初期化したこいつにとりあえずインストールしてもらい、あとで本体へ移動する算段だ。
移動にも作業スペースがいるのかは少し心配だったが、そんなことはなく無事本体に入ってくれた。
もしかしたら、スマブラも最初からUSBメモリ使ってれば、使いもしない内蔵ソフトをインストールしたり開いたり削除したりしなくても良かったのかもしれない。
2面くらいしか進んでいないピクミンのデータを返せ。ボスが怖いんだよ。
USBメモリくんは初期化した段階ですでに500KBほど埋まっていたような気がするから、スマブラ更新に使う場合は4GB以上を用意できると安心だと思う。
手持ちがあれば試してみてくれ。
というわけで、再開の花園に行ってくる。
待ってろ、ブリトニー!今助ける!
推しがうざい。
売れ始めてたからまあまあ仲よかった同じ事務所の売れっ子達と仲良いアピールを急にし始め、それが今年に入ってから急激に増え始め、とても気持ちがよくない。私の我儘で申し訳ないが。
その作品が好きなことはわかるが変な時間に実況ツイートはやめてくれ。それのせいでフォロワー数が減ったことに対して逆ギレをするな。自分のせいだぞ。ファンが何もかも受け止めてくれると思ったら大間違いだ。甘えるな。何故マネージャーはいつまで経っても黙っているのか。事務所で明らかにツイート数が多く、趣味垢とは言いつつも誤いいねが多かったり、ドラマの役のアカウントを作り出したり(ドラマ側からは許可は取っていると思うが正直なにがやりたいの?という気持ち)、やりたい放題ではないか。
http://izumojiro.hatenablog.com/entry/2017/02/27/194152
なるほど。たしかに今の時代、テレビから取得する情報よりもインターネットで得る情報のほうが価値があるかもしれない。
インターネットは情報の選択可能性を有している。インターネットにおいて、関心のない情報は見なくて済むし、気分を害するような記事やコンテンツも意図的に取り除くことができる。
Twitterを始めとしたSNSも、その強みの本質は情報の効率化だ。
気が合わない人のアカウントはブロックすればいい。馬が合う人とだけ相互フォローの関係を結んだ上で情報を共有する。無駄のない社会、素晴らしい。
では、ここでひとつ。知的好奇心を満たすという前提で、テレビは本当に必要ないのだろうか?
リンク先の記事の担い手は、テレビ無しで生活をした上で実感を語っているだけである。記事の書き手に罪はないので、それを言及するつもりはない。
ただ、教養や知識を蓄えようとするならテレビは必要不可欠なアイテムだと私は思う。
理由としては、テレビの情報にも価値はあるからである。むしろ、近頃はインターネットに掲載された中身の浅い記事やwikiよりも、NHKのドキュメンタリーや放送大学の講義のほうが体系化された智慧として有用性が高いように感じられる。
なぜなら、傾向としてインターネットの知識は皆一様に同じものを選択することになり、情報が共有できてしまう以上、その情報に価値がないからだ。
知人に大学講師が数人いるが、試しに話を聞いてみると、インターネットのニュース記事も読んでいれば、テレビ番組もしきりにチェックしている。もちろん熱心に本も読む。
あくまで私の周りの傾向なので、いやいやそれは違うだろと云う人もいるとは思う。
何はともあれ、私はテレビ不要論にはわりと辟易としている。これは個人の意見なので、どっちが正しいか悪いかという線引をすることがこの記事の目的ではない。
それでも、インターネットのほうが便利だという意見はげんなりするほど耳にする。一昔前よりもテレビの優先度が減ったことだけは確かだが、そこまで必要のないものだとも思えない。