「この世界の片隅に」
何となく評判が良さそうなのと、こうの史代が原作だというのとで、
北海道じゃ知る限り今のとこ札幌の1つの映画館でしかやってないけど、観に行ってきた。
もう言葉も出なかった。
帰り道の途中、あーでもないこーでもないと、頭の中で感想をひねり出そうと頑張ったんだけど、とにかく上手く表現できない。
ただただ、素晴らしい。この「素晴らしい」という言葉も何か陳腐なものに聞こえて、却って作品を貶めてしまってる気がする。そんな感じ。
もちろん、個々に素晴らしい要素を取り出すことはできる。
背景がとにかく綺麗で、建物や草花、人々の描写が緻密で、登場人物たちも何か温かな感じで、
物語も、すずさんという主人公を中心に、戦時中の市井の人々の暮らしが丹念に描かれていて、
それでいて、あの時代、あの戦争というものに、いわゆる普通の人々がどう向き合っていたのかを考えさせられる。
今さら自分が言わなくても、もういろんなところで考察や感想があがっているから、これ以上言及する必要はないだろう。
それでもどうしてこの映画がこんなにも心を打ち抜いたのか、説明できない。
自分の表現力が乏し過ぎるから上手いこと言えないだけなんだろうけども、何とか自分の言葉で感想を言いたいなぁ~と考えて考えて、
そこで思いついた!
そういえば自分の中で同じくらい心を打ち抜いた映画があったなぁ~と。
それと「この世界の片隅に」で、なにか共通するものがあるんじゃないかなぁ~と。
はぁ?「この世界の~」と「ぽんぽこ」を一緒にするんじゃねぇぞカス!
とどちらのファンにも言われるかもしれないけど、言われても仕方ないんだけど、
少なくとも自分はこの映画を語るのに、「ぽんぽこ」という“触媒”が必要だった。
「平成狸合戦ぽんぽこ」は高畑勲監督が手がけたご存知スタジオジブリの作品だ。
内容をごくごく簡単に言えば、ニュータウンの開発で自分達の住処を失う危機に面した狸たちが、必死の抵抗を試みて敗れる物語である。
でもここに出てくる狸たちは、そんな深刻な事態なのにどこか暢気でズレていて、人間との「戦争中」だけど恋も遊びも楽しんでいる。
そしていよいよ追い詰められていく中で、ある者は徹底抗戦を唱え玉砕し、ある者は自分たちを受け入れてくれるこの世の楽園(そんなものはないのだが)を目指して旅立ち、
主人公を含むその他の者は、人間社会への同化を試みることを決意するのである。
この作品、たくさんの風刺やメッセージが込められていて、解釈も様々ある。
そして自分が感じたのは、「(それでも)生きていく」というものだった。
ニュータウンの開発。それはそこに暮らす狸たちにとって、自分たちを取り巻く環境や価値観を一変させる脅威だったに違いない。
だからこそ必死に抵抗するのだが、しかし圧倒的な力の差に敗れ去ってしまう。ただ、それでも―
主人公を含む一部狸たちは、人間社会の中で、人間の価値観の中で、「(それでも)生きていく」ことを選んだ。
映画の最後の方で、主人公はかつて豊かな森であったろうゴルフ場の片隅で、小さな宴会を楽しむ昔の仲間を発見し、再会を祝う。
その小さな幸せを楽しむ向こう側には、絶望的なほどに圧倒的支配者となった人間の暮らす街が広がっていた―。
なんだか救いがないように見えるけど、でも、不思議と希望も持てるラストだと思った。
きっと狸たちは、もう今までの自分たちの世界は取り戻せないけども、それでも新しい世界のどこか片隅に自分たちの居場所を見つけて、
さて、「この世界の片隅に」はもちろん「ぽんぽこ」とは全然違うんだけど、
でも根っ子の部分で重なるんじゃないかなぁ~と、少なくとも個人的には感じた。
自分たちを取り巻く社会、価値観、環境が変化する中で、それに戸惑ったり抵抗したり適応したりしながら、それでも生きていくということは、人間の普遍的なテーマだと思うから。
この映画はその普遍的なテーマを直接言及するわけでなく、戦時中の市井の人々の日常という形で描いてるものだから、
何か上手く捉えられず表現できないんだけど、心を深く揺さぶるんだと思う。
余談だけど、今まさにこの現代にこの映画が出たことは、タイミング的に奇跡なんじゃないかな。
というとオーバーだけど…でも、世の中が激変し過ぎて、正直自分は不安を感じてるよ。
テロの多発、英国のEU離脱、トランプ大統領の誕生等々…。あんま政治的な話を持っていくとこじれるからこれ以上はやめとくけど、
いったいこれからどんな世界が訪れるんだろうか、全然分からない。
分からないんだけど、考えるのを止めて狸寝入りしちゃ駄目なんだろうな。
経営の立場からすると、あなたと会社が合意した金額を給料にしてるだけなのだから、
http://anond.hatelabo.jp/20161120160732
http://www.nhk.or.jp/kaisetsu-blog/100/256756.html
http://kenplatz.nikkeibp.co.jp/atcl/cntnews/15/111300589/
軟質地盤や今回のように岩盤が浅く、上部層が過圧密な所では保持効果やアーチ形成効果を期待するので、縫い付けるという表現はあまり適切ではない。
うちの会社って、毎年会社が働きっぷりを評価する仕組みなんだよね
で、それで1位取ったのよ、1位。部署レベルじゃなくて会社の中でぶっちぎりの一位ね
別に今年だけ1位ってわけでなくって毎回こんな感じね
今まで給与の交渉とか他の人が見てるのを他人事みたいに見てただけだけど、これ流石におかしくね?
黙ってれば安い給料で働くだろとか舐められてるの?
「夢があるなら、なぜ命をかけないのか」
この言葉には同意しかない。だけれども、「命をかけたいほどの何かがない人」はどうしたら良いのだろうか。「命をかけたいほどの何か」が欲しくてたまらないのに、それを見つけることができない人はどうしたらいいのか。そんなことを悶々と考えながら生きてきた自分が、やっと自分の中の答えにたどり着いたので、そんな同士に向けて書く。
「夢」であったり「やりたいこと」であったり「成し遂げたいこと」の必要性を、僕らは教育の中で植えつけられてきた。教育だけでなく、僕らが目に触れる言葉の多くは、「何かを成し遂げた人の言葉」だったりする。それゆえに、「夢を持てない自分」に対して劣等感を抱くようになってしまう。「やりたいことがない」状態は異常なんじゃないかと感じてしまう。そして、「やりたいとがある彼ら」に対しての異常なまでの憧れが元で、その劣等感に拍車がかかってしまう。そんな自分を変えたくて「自分探し」みたいなことをしてみても、偽りの夢しか見つからず、結果として何も変わらない。
そんなときに「彼ら」は、「夢を持つ必要性」を大事そうに教えてくれる。「夢に向かって努力すればいずれ夢は叶う」と。何かを成し遂げるためには、まずは「夢」を持たなくてはと。大きなお世話だ。そもそも、本心では何かを成し遂げたいと思ったことなどない。そのことを、「彼ら」が理解することはない。「彼ら」には何の悪気もない。「彼ら」の性質上「夢」が必要であって、それを達成することが生きがいだったから。そして、自分が感じる生きがいを、他の人が感じないわけがないと思っているから。
「何かを達成していくこと」に生きがいを感じる人と、その部分には何も感じない人がいる。この単純で明快な事実を、僕らは一度も教わったことがない。教育どころか、世の中全体として、その事実をひた隠そうとする。いや、隠しているのではない。「彼ら」の考えの中には、「何かを成し遂げたいと思わない」人など存在しないだけだ。隠していることに気付いてもいないだけだ。だからこそ、心に留めておいてほしい。「彼ら」の世界が全てではない。そこに気付くことができなければ、自分の人生を価値がないものと思ってしまうから。
「やりたいことを成し遂げる」こと自体は、素晴らしいことだ。だけれども、人の生き方や性質は、それだけではない。やりたいことなんてなくても正常だし、それでいい。そこに悩む必要はない。そんな人生にも意味がある。何かを成し遂げない楽しさも存在する。何も成し遂げられなくとも、何かをしている「過程」自体が楽しいという性質の人もいる。根本的に、「彼ら」とは違う人種なんだ。ただそれだけなんだ。やりたいとが何もなくても、劣ってるわけでもなんでもない。正常だ。「彼ら」が何を言おうが、耳を傾ける必要はない。ただ、人種が違うだけなんだ。そこだけは覚えていてほしい。
ただ、「やりたいことができたのならば、命をかけてやれ」。
日本の少子化を(一時的にでも)食い止める有効な方法がこれしかないからね。
20年以内には議論が始まり、30年以内には法整備含めた具体的な検討が始まるだろう。
そうなればもはや一般家庭では子供を産み育てる事は現実的に不可能になる。
本来ならここで国が動かなければならないんだけど今の日本ではもはや手遅れ。
そもそも票にならない若い世代、子育て世代相手に有効な手立てなどとれるはずもない、だってこの議論してる人たち全員子供何人も育てられるだけの富を持ってるからね。
この話以外もそうだけど金持ってる連中が自分の懐傷めないように勧める貧困対策なんて効果あるはずが無い。貧富の格差は今後確実に広がる。
独身税とか子育て費用無料とか金のかかることはできない、富める人たちの懐が痛むからね、問題解決に十分な額は絶対に出さない。
金かけずに済む「小中学校で性の授業を取り入れる」とか程度が関の山じゃないかな
となると、富める人たちが得をして元々子育てをあきらめた人たちからも文句が出ない唯一の回答が「一夫多妻」これだけ
まあ一夫多妻だけだと男女平等うんぬんって問題になるから一妻多夫も認めるだろうけど
結婚後の男女別姓あたりから入って家族の在り方を時代に合った形にとかって議論の段階を経て富める人が複数の配偶者を持てる用に制度改正がなされる
議論する人も、法整備する人も、報道する人たちも、全員配偶者複数持てる富める人たちだからすんなり可決するでしょ
男は何人の女を嫁にできるかがステータスになり、女はいかに金持ちの男の第一夫人になるかがステータスになる
予言。
「o号室」というアカウントのTwitter上での投稿が書籍化されたことが話題になっていたのだが、その投稿をここにいくつか挙げてみると、「なんでもそうだけど 大切なものほど後で気付くから」「大切な人をもっと大切にしていきたい」「遠距離だろうと近距離だろうと 続く人は続いていく」等々、具体的なシチュエーションは一切書かれていないが、恋愛関係における格言めいた言葉がポエム調の文体で並んでいるものであった。
上の三つのうち、一つ目と二つ目は恋愛関係でなくとも、家族や友人といった人間関係全般に当てはめることができるものである。それ以外の投稿もほぼこういった、o号室氏が日常で頭に浮かんだ「気づき」めいたものが並んでいる。先に具体的なシチュエーションが書かれていない、と書いたが、o号室氏の投稿から想定されるシチュエーションは「恋人がガソリンをかぶってライターを握り電話してきている」「親が数千万円の借金を完済した」といったものでは決してなく、「恋人と別れた」「同級生が部活を辞めた」といった多くの人が経験として持っていてもおかしくないもので、さらにその「ありきたり」な事象に対する投稿の切り口自体も「ぼっちになったのでヤケクソで風俗四件ハシゴした」といったおかしなものではなく、その投稿に独自性といったものは皆無だ。しかし、突如投稿される「一生届かない好きもあるよ」という投稿は多いときでは三万リツイートされる。
このたびそれらのTwitter上での投稿が書籍となったが、「いちいち言わなくてもいいことをツイートにしただけで書籍化かよ」といった感想もあるが、「共感した」「泣けた」などの感想が多く見られ、刷られた部数も六万部を突破したことから、支持している人たちが多くいることは間違いない(無名の作家や物書きの書籍の部数など、初版では数千部程度である)。
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いま、酒を飲みながらなるべく感情を込めずに「0号室とかいうどうでもいいクソみたいなアカウントがキモいツイートを書籍にして印税でカネを得ることが気に入らない」という私の感想に他人が共感を持てるように書こうとしたけど、面倒になった。結局、彼もおれも共感が欲しいのだろうか。0号室氏のクソ書籍、Twitterでのクソ投稿も「共感しました」という感想で語られている。小説でも映画でも、「主人公に共感を得られない」ということから評価を下げる感想が多くある。「共感を得られる」ことで評価されていいのだろうか。独自の視点(自分の中になかったものの見方)を読者やお客さんに提示する、それがメディアの存在意義ではなかったのだろうか。共感というものに対して目くじらを立てるつもりはなくても、さすがに0号室の書籍はねぇよ。途中からグビグビ酒飲んで書いたからぐちゃぐちゃだけど、ねぇわ。あんなもん読んで人生が変わるわけねぇ。毒にも薬にもならない。カス。同じカスでも、深爪とかの方がまだ芸はあるかもな。独自性があるから(で?という内容だけど)
別にその質問自体は理系女子だけが聞かれるなんて思ってないよ。
そりゃあ志望動機自体はどこだって聞かれるでしょう。ましてや就活で聞かれて怒る訳ないじゃない、ほとんどが選考のために必要な質問なんだから。一体何を言ってるの?
私や増田が生きづらさを感じる「えーなんでそこに入ろうと思ったのー?☆」っていう問いかけには
みたいな見下しが入っているように見えてならないんだよね。他のトラバにも書かれてたけど、オタサーの姫なんて面と向かって言われることもあるしね。紅一点という言葉を知らない人なんだなと思って聞き流してるけど。