http://anond.hatelabo.jp/20160627000718とhttp://anond.hatelabo.jp/20160913044251を見てて思ったこと書く。お二方に全面的に賛成。
とにかく「察せ」のレベルが高すぎる人が多い。
嫌なら嫌というべきだし、好きなら好きといえば良い。仮に直接言葉にできなくとも、せめてなんとなく類推できるような言葉はあるはずだ。
それを、たとえば、本当はあることをやりたいのに明確に「絶対にやりたくありません!」と断言してしまえば、周りがそのまま思ってしまうのは当然であり、「自分は本当はやりたいのに察してくれない」と怒ったり、まあただ怒るまでならともかく、察せれなかった人を過激な言葉で攻撃するのはどうなんだと。
一応、「察する」ことができなかった人は、その人にどういうことなのか、と質問をしたりする。しかしこれに対して一部の人が「察せ」とだけで答えず、仮に自分の思うとおりに行ったとしても質問行為自体を攻撃するのは疑問に思う。そもそも、誤読や誤解なんてよくあるのが現実だし、それを危惧して質問をすることの何が悪いのか?
「察せ」はあくまで、文章を客観的に読んだ結果、日本語の論理構造として類推可能な範囲でのみ要求されるべきで、それでも類推を失敗する人がいる可能性も少しは想定されるべきと思う。さらに言えば、類推失敗した人へも、多少は穏やかな形で訂正があるのが理想で、少なくとも即攻撃に向かうというのはどうなんだと。ましてや、心を読むことを要求レベルの「察せ」などそもそもあまりするべきではない、どうしても必要があってする場合でも、失敗した人を過度に攻撃するのは控えるべきなのではないか。
勿論「自分は察せれるから察します」はまあ個人の自由だ。しかし、察せれないと自覚している人が、察せれないから明確な言葉を引き出すために質問をしているのを、それ自体とんでもない発言とでも言いたげに攻撃し続けるのが正しいとはとても思えない。
誤読を防ぐために、解釈の余地のないようにしっかりと明示した説明を書く方もいて、そのようなスタンスが比較的良いと思っているのだが、こういうのに対してわざわざ誤読を防ぐための努力そのものを攻撃するというのも不快である。コミュ力抜群な方からしたら、どうしても空気が読めない人に敵意を持ってしまうというのは十分理解しているが、できないことを過度に要求するのは、余計な対立を生むだけではないのか。
結局言葉にされていないことを読み取るのは不可能なんだってそろそろ気づいてくれよ、と思う。
勿論、言葉にされてることも完全には読み取れないってのも。
なお、元記事は読んだが「空気」を読まずに書いたこのダイアリーも、元記事の誤読も含まれるだろうし、それこそ一部の人からしたら相当批判されるべきものと扱われるだろうということは自覚していることは明記しておく。
「空気を読め、察しろ」ってさ、大人なのに自分の主張もせず、ひたすら相手任せの察してチャンな甘ったれだと思うんだけど。 あんたとは違う人間なんだよ。いい加減自立しろ。 幼児...
http://anond.hatelabo.jp/20160627000718とhttp://anond.hatelabo.jp/20160913044251を見てて思ったこと書く。お二方に全面的に賛成。 とにかく「察せ」のレベルが高すぎる人が多い。 嫌なら嫌というべきだ...
http://anond.hatelabo.jp/20160627000718 そうなんだよね。 言葉にしてようやっと言いたいことの5~6割が伝わるかどうかってところなのに、言葉にもせずに「わかってほしい」などというのはあま...