何かのテーマに対して、過度の演出で同情を誘うやり方が批判されてるんだよ。
これなんて、視聴者のそういう志向に乗っかってやれって魂胆でしょ?
ファミコンを買ってもらえなかったおいらが段ボール箱と蒲鉾板でゲーム機作って気を紛らせてたことを思い出したわけだけど、
(そして、インパクトがあったからこそこうして話題になってるわけだけど)
金がない、というのはきっとそうなのだろう。
進学に必要な現金がないということも、そうなった経緯はともかく、事実はまあ、そうなのかもしれない。
相対的貧困だとか貧乏人は趣味から逃げられないとか、それはそれで背景としてあるのだろうけど、
もっとガチガチに、所得の使い道に選択肢なんてない貧困家庭を差し置いて、
この家庭をもってこれこそ「貧困」だ!ってやることが問題提起として本当に正しいの?
趣味に関しての情報はしっかり集めてそれを楽しんでいるわけで、
パソコンがいくらで売ってるかなんて情報はその気になれば簡単に手に入る。
そして、選択さえすればちゃんと買うこともできる。
仮にそこに同情できることがあるとすれば「経済的観念に欠けていることの哀れ」くらい。
この人たちに必要なのは金銭的な支援ではなくて、マトモな経済的観念ではないの?
この事例をも社会問題としての貧困だというのなら、趣味と生活のバランスを欠いてりゃいいわけで、
「フェラーリ乗り回してたら金がなくて…」なんてのも社会が支えなきゃなの?
この件のあちこちで「貧困ビジネス」なんて言葉が出てきてるけど、これが一番問題だと思っていて。
本当に支援が必要な、ガチガチの貧困家庭さえ、この件のせいで変な色メガネで見られ、
社会的に(=近所の評判的に、あるいは当事者自身が抱く支援は恥みたいな意識で)
そういう事情をあらかた了解した上で それでも尚、彼女を押したい思惑が存在して そうした作為を感じ取ってみな反発しているのだと思う。 近年のマスコミ発の炎上はこういう構造が...
http://anond.hatelabo.jp/20160820114932 趣味に逃げてしまうのも貧困の実像のひとつなら 「パソコンがいくらで売ってるかなんて情報はその気になれば簡単に手に入る。」けど探さないのも貧困が...