2016-05-05

たまの「さよなら人類」の未来において本当に人類が初めて木星に到達したときテレビで流れてそうな感じは異常

人類が初めて木星に到達するのはいつになるだろうか。

私は今年30歳になるが、私の生涯でそれは実現しないだろう。

未だ人類火星にも行けていない。

恐らく、西暦2250年ころなんじゃないだろうか。なんとなくそう思う。

2250年ころには日本と言う国家日本人という民族は、私たち想像できないほどに、今と異なっているだろう。

江戸中期の人間私たち想像できないこととおんなじだ。

けれども予感のすることは、予感のすることはこうだ。

バンドたまはどこか文化社会のどこかできっと、きっと生き伸びるのではないかと言うことだ。

そして現在私たちでいう、ワイドショー的なものの2250年的なもので、木星への初の人類到達を報道する時、かならずたまのさよなら人類が流れることになると思う。

これは私にとって確信していることだ。私が死んだあと、2250年ころにそうなる。

なぜなら木星に到達したことで、ピテカントロプスジャワ原人)になる日が近づいたとたまが歌うからだ。

巨視的に見れば、ピテカントロプスになることも木星人類が着くことも同じだ。

達成する、ある場所にヒトが進む。評価は措いておいて、ある場所に歩みを進める。

それが時空間の中で木星に着いたかピテカントロプスになったかの違いでしかない。

見事な循環的な発想だ。

から想像もつかないけれど、私も未来のことを考えてもいいし、江戸時代の人だって250年くらい後のことを想像したっていい。

2250年代の人々だって、たまの「さよなら人類」が歌われたバブルのころに思いを馳せてもいい。

こういう理由を以て、2250年代にたまの「さよなら人類」が木星に着いたことを言祝ぐ歌曲で登場するし、私がそれを想像する余地をたまの「さよなら人類」は生んでいる。

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