2016-04-26

街頭募金に冷たくあたる

自分の中にあるタチが悪い部分が存分に刺激されるものがいくつかあって、そのうちのひとつが街頭募金である

歩く道すがら、箱を抱えて佇む人や、声高に募金への協力を叫ぶ声に触れてしまうたびに「けっ、くそが」のような悪態心中で吐き、もちろん小銭すら投じることはないのである特に東日本大震災関連のものか、大の大人雁首そろえて並んでいる場合は私にとって最悪で、これらにはなんとしてもびた一文、絶対募金に応じる気はないのであった。

かつて、まだ義務教育も中頃に届かぬ頃の時分には、私もこのような街頭募金活動に参加したことがあった。とある地方政令指定都市でのことであり、それは赤い羽根募金ではないものの、かなり著名な団体が手伝って(主催して? 後ろ盾にいて? なんにせよ関わって)いたものだった。子供をずらりと並べて「ご協力お願いしまーす!」と叫ばせる類のものである。どこの都市でもそうなのかは知らないが、私が住んでいたその町では、該当募金といえばここ、ここにはいつも街頭募金がいるね、というような場所があり、私もそこに集合したのだった。

当日の朝、募金活動を始める前に、責任者っぽい大人がわれわれ子供たちにしっかりと言い聞かせたことがある。

「もらったお金がどの団体に行き、どのようなことに使われるか、質問されたら答えられるようにしなさい。それができないなら参加してはいけません」

もちろん、その質問の答えとなる内容もセットで教えてくれた。◯◯という団体に渡され、◯◯のために使われるのだよと。

わりと真面目な子供たちが集合していたこともあってだろう、みなふんふんと素直に聞き、街頭募金は開始された。やってみると、子供から見ると意外なほどに大金が集まる。紙幣を投じていく大人もいた。意味もわからず感激して、「ありがとうございまーす!」と声を大きくしていたような記憶がある。

始めて数十分だか、一時間超だかした頃、私の前に成人男性が立った。そして、こう言った。

「この募金って、何に使われるの?」

そう質問されたのだ。

どきっとしたものの、朝に教えられた通り、「◯◯◯◯に渡します、◯◯のために使われます」と言った。緊張と動揺でつっかえつっかえではあっただろうが、間違った答えはしなかったはずだ。「間違い」というのは、まあつまり、その瞬間の私にとってはクイズに答えるような感覚の問答だったということでもある。テストの答えのらんに確信を持って答えを書くときに似ていた。

男性は「そうか」と納得した様子で、募金に応じるにしてはやや高めの金額を投じてくれた。千円だったか、五百円だったか、そういう額だ。緊張で視線を伏せていたのだったかその男性がどういう表情でそうしてくれたのか、印象すらない。

まるで仕込みのような展開だとすら思う。けれど、あれ以来、自分にとって街頭募金神聖ものになってしまった。気軽な気持ちで行ってはいけないものになってしまった。

Wikipediaで「街頭募金」の記事を読んでみたら、「問題点」の項目があり、「街頭募金においては募集団体寄付者が一過的にしか接触しないケースが多く、せっかく寄付をしても使途をそのお金が本当に目的通りに使われたのか追跡できない場合もあり、悪質な場合には募金詐欺であることもある」とあった。あのとき大人がわれわれに教えた内容は、なるほど、これに対するアンサーである説明するのがわかりやすい。

そう、つまるところ私は、街頭募金の実行者に、資格のような、覚悟のような、そういう面倒なものを求めるようになってしまった。だからそれを持っていなさそうな人には訊ねてやりたくなる。あの男性と同じような内容を、しかしあの男性とは違って、ただ相手を咎めたいがためにだ。なんて底意地が悪いのだろう。

それに加えて、今の自分出来高制で働いているせいで、街頭募金で集まる金額と、自分の時給とを照らし合わせてしまう癖がついた。大の大人が実際にその場に集結してまで、生産もせずに他者の余剰を集めるのは非効率的に感じられて見ていられない。そのぶん何かを生産して対価をえるか、もっと効率のよい方法でことにあたれないものかと、詰め寄ってしまいたくなる。

なお、東日本大震災に関わる募金特に見たくないのは、もうすでに20万円ほどをチャリティに投じているかである。これ以上はキリがないのでもう応じないと決めている。

そんなわけで、街頭募金はもう見るのも嫌である。彼らから目をそらして歩く速度を早めるとき、私は心中悪態をついてしまうのだ。

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