なんかもうめんどくさい
「この会社、実は経営やばいんですよ」みたいなことを言われる。
面接会場も外気温と同じくらい寒くて、暖房費をあきらかにケチってる。
経営があまりよくなくて、正社員を切って契約社員(有期雇用)にしているのは受ける前から知ってた。
(受けているのは正社員だけどね)
でも面接でさすがにそれを言ってしまうのかーと思ってしまった。
なぜかホモに好かれる体質で女のフリをしてる俺と逆だな
マッサージへいくと揉み出しのころに強さはどうですか?と聞かれる。
ここでは、臆することなく「すこし強いです。もう少し弱めでお願いします」と告げられる。
もみ返し悲しいし。
で、例えば最初が腰ですこし弱くしてもらった後、自分が特にしてほしい首に来た時に「首はもうちょい強くがいいなぁーーー!!」となったときが問題。
みんな「あ、ここはも少し強くお願いします」とかを緊張せずに言えるのだろうか?
さっき弱くしてって言ったじゃん!て思われないかめちゃくちゃビクビクしながらでもせっかくだからと思って勇気を振り絞る。あの時の心的負荷はマッサージの効果を半減させるくらいに思えてしまう。
理想は、強い!弱い!ボタン(または脳波などを読み取ってほしい)があって押す。それをみて変えてくれる。
そして大事なのはマッサージ師さんはそれをみた時言葉で反応しないでほしい。
「あ、強かったですか、弱くしますね」とか声かけられた日には「うわーやっぱうざいとか思ったのかなー自分で言えないんだーとかかまってちゃんに思われたのかなー」等を気にしてしまう。
どうか何も言わず、そっと強弱を変えてほしい。
強烈なもみ返しによせて。
わかる
https://www.sophos.com/ja-jp/press-office/press-releases/2012/09/jp-fb-real-name-policy.aspx
>女性であることを示唆するユーザー名を使用すると、男性に比べてオンラインでいやがらせを受ける頻度が最大で 25 倍も高くなります。
で女であることを隠したら
http://hatena.fut573.com/entry/2013/11/13/195633
>ネット上に「普通の若い女性」が「普通」に存在するということが感覚的にピンとこない
ほんと地獄
「宿題やろうと思ってるときにお母さんにやれって言われたらムカつくでしょ?それと同じ感情湧くからなにも言わないで」
と言われ発狂した
というのがちらほら見受けられる気がする。特にここ数年。
高学歴(特に理系修士卒)ならば今後の成長を見込めるだろうという事で人事は採用していたようだが、
新卒から数年が経過したところで、彼らの能力は十人並、他の同期と変わらない。
話してみると確かにどこか知性を感じさせるような一面もあるが、それは職能として生かされるようなコミュニケーション能力というほどではない。(俺は学歴コンプのきらいがあるので認知バイアスがかかっている可能性がある)
そして肝心のコードの生産量と品質はごく普通だ。むしろ生産量に至っては少し平均より低い気がする。
このまま続けても彼らの能力は大して向上しないだろうし、実力主義のこの業界では大幅な昇給やキャリアアップも難しいだろう。
彼らのキャリア選択が「もったいない」のかどうかは分からないし、他人が決めることでは無いのは確かだが、しかし何かもやもやする。
病気療養のため都内の自宅を引き払い、西日本の山地にある実家にもどる。
職のあてはないが、実家のある地域に仕事なんてないため、機会があれば都内に戻る予定だ。
都内とその周辺部に戻れないならそのときは人生そのものを諦める。
四国とネットで猛威を振るうトマト大王(口癖は『まだ東京で消耗してるの?』)みたいに、田舎最高なんておめでたい考えは持っていない。
それはさておき、療養生活に入る際アニメと漫画を断とうと考えている。
また、アニメや漫画の情報が入りそうなインターネットにも機能制限をかける予定だ。
具体的には、文化庁除く政府機関と大学などの研究機関、書店以外のすべてのサイトにアクセスできないよう設定することだ。
例えば雨が降りそうでカッパも傘もないから降ったら困るよ帰ろうとどれだけ言っても、やだ公園で遊ぶと聞いてくれず案の定真冬の雪混じりの大雨に降られながら、自分のカッパを子供にかぶせて自分はずぶ濡れで帰っているときに、おっさんになった息子が「母は自分は濡れても自分にカッパを着せてくれた」とか葬式とかで言ってくれてる妄想をするけど、現実はそんなことはあり得なく、子供は遠回りしてスーパーでバナナ買ってーとぎゃんぎゃん騒ぐわけで、周りの先輩ママさんを見てもママに感謝の手紙みたいな可愛いことをするのは娘ばかりで息子はほとんどがバカなわけで、そもそも先日の雨で濡れた子供のカッパを干しっぱなしで忘れた私が悪いわけで、絶対に感謝されないがめっちゃ辛い献身に感謝される妄想くらいしても良いですよね。
全然関係ないけど、15年前くらいにソーシャルブクマサービスの走りみたいの無かったっけ?
名前も何も丸っきり思い出せないんだけども。
あの時代って、結構今に繋がるサービスが色々出てきてて楽しかったなあ。
オンラインメモとかさ。
エヴァQを今更観て考察を色々読みふけっていたのだけれども、新用語の定義をうんうん唸って考察しているページばかりで、作品のテーマというか結局庵野はこれで何が言いたいわけ?というところを誰も言及していないので自分で書く。
※追記(2016/4/25):はてな内外からたくさんの反響を頂いて驚いた。投稿後、考えが変わったところもある(特に震災の影響を見逃していたこと、ヴィレの分離の意味について)のだけれど、もう一度全部見直して加筆修正する時間が取れない。近いうちに頑張りたい(ここ見てる人も少ないだろうが)。
新劇場版のテーマを考察するにあたって、まず旧世紀版のテーマを確認しておきたい。
結論から言えば、旧世紀版の中心テーマは(1)組織上位の命令とあれば人殺しさえやってしまう人間の悪辣さ、(2)若者を自らのエゴの実現のために利用する大人の悪辣さ、(3)自分の価値を見出せない現代人のコミュニケーション不全、(4)馬鹿は死ななきゃ治らない、の4つである。以下詳述する。
旧世紀版において明かされる最大の謎と言えば、使徒とヒトとがほとんど同じ存在であるということである。そのことはミサトの台詞から良く分かる。
「私たち人間はね、アダムと同じ、リリスと呼ばれる生命体の源から生まれた、18番目の使徒なのよ。他の使徒たちは別の可能性だったの。ヒトの形を捨てた人類なの。」
そして第24話において登場する渚カヲルに至っては、ヒト以上の容姿、能力、パーソナリティを持つ魅力的な存在として現れた。そのことはシンジも認めるところで、以下のように述べている。
「そうだ。生き残るならカヲル君の方だったんだ。僕なんかよりずっと彼の方がいい人だったのに。カヲル君が生き残るべきだったんだ」
しかし周知のように、シンジはこれを殺してしまう。TV版第25話第26話は主としてこの懺悔に費やされるが、そこで繰り返されるのは、ヒトを守るためには命令通りにカヲルを殺害するのは仕方なかったという言葉である。
シンジ 「結局、僕はこれに乗るしかないのか?好きな人を殺してまで。父さんやみんなの言う通りに、またこれに乗って戦えっていうの?母さん、何か言ってよ、答えてよ」
ここには、人殺しさえも上の命令であれば仕方ないとしてしまう人間の悪辣さが表れている。
そしてこの人間の欠陥は、エヴァンゲリオンの元ネタとしてしばしば監督自身が挙げる、岡本喜八『ブルークリスマス』、富野由悠季『イデオン』で繰り返し述べられるテーマでもあり、その両者の背景にあるのは第二次世界大戦である。
なお、エヴァ以降の作品であるが、インドネシアの大量虐殺を扱ったドキュメンタリー『ルック・オブ・サイレンス』においては、被害者の遺族になぜ家族を殺したと問い詰められた加害者が、シンジと同じ言い訳をしているのが分かる。
旧劇場版では、上記のようにシンジにカヲルを殺害させ、深い絶望(=デストルドー)に陥れ、そのデストルドーをトリガーとしてサードインパクトを引き起こしている。
その動機は、ゲンドウについては「ユイに再び会いたい」というもので、ゼーレにいたってはキリスト教的な原罪観から、人間を贖罪させたいというものである。どちらも身勝手な発想に基づくもので、到底人類全てを滅ぼす理由とはなり得ない。
ここには、若者を自己のエゴの実現のために利用する大人の悪辣さが表れている。
なお、エヴァには影響は与えていないが、深作欣二『仁義なき戦い』においては同様のテーマが描かれていて、その背景にはやはり第二次世界大戦がある。
周知のように、シンジは自分の価値をエヴァパイロットであることにしか見出せず、それを失って人に見放されることを非常に恐れている。
TV版最終話はほとんどこのテーマについての議論に費やされている。その一部を引用する。
以上のような問題を抱えた人類は、旧劇場版においてサードインパクトに突入し、シンジとアスカ以外全滅してしまう。
生き残ったシンジは、隣に横たわるアスカの首を絞めてしまう。これは(解釈の余地はあるが)シンジの対人恐怖症がまったく解決されていないことを意味している。馬鹿は死ななきゃ治らないのである。
以上の点を踏まえて、エヴァQでは旧世紀版のテーマをどう扱っているのだろうか。
結論から言うと、シンジは相変わらず人を殺し、大人に利用されている。これは旧世紀版との比較を表にしてみると分かりやすいかもしれない。
旧世紀版 | 新劇場版 | |
---|---|---|
殺した対象 | カヲル君(をはじめとする使徒) | ニアサードインパクト震源地の付近住民 |
殺害の正当化理由 | 上位の命令に従っただけであり仕方がない | 愛する綾波を救うためであり仕方がない |
罪の代償 | 深い絶望 | 周囲の非難 |
贖罪の方法 | 戦自に殺されることを望む | 2本の槍と13号機で世界の修復をする |
上記行為の結果 | ミサトに自殺を阻止され、戦地に送られるが、デストルドーをゲンドウ(とゼーレ)に利用されてサードインパクトが発動。人類はシンジとアスカを除いて滅亡。 | 世界修復の希望をゲンドウに利用されて、フォースインパクトが発動。目の前でカヲルの首が飛ぶ。 |
主な変更点としては、①殺害の正当化理由が「上位に命令されて・・・」という消極的なものから、「綾波を救う」という積極的なものに変化したこと、②贖罪の方法が自殺という消極的なものから、世界の修復という積極的なものに変化したこと、が挙げられる。
さらに、③「(3)自分の価値を見出せない現代人のコミュニケーション不全」という問題がほぼ扱われなくなっている。
これらの変更の結果、エヴァのテーマは(その善し悪しはともかく)矮小なものとなった。すなわち、旧世紀版においては第二次世界大戦により露わとなった「人類の問題点」ともいうべき大問題が扱われていたのに対し、ここで扱われている問題はあくまで「シンジの問題点」である。このことは、愛する者のために人殺しをしてしまうというのはいかにもフィクションが好みそうなところで、現実でこれが問題となる例は少ないということからも分かるだろう。
さらに、「(3)自分の価値を見出せない現代人のコミュニケーション不全」という問題がほぼ扱われなくなったことでテーマはより普遍性を失っている。
上記の点を踏まえた上で、なぜテーマの変化が起こったかを考えてみると、私はエヴァの成功と自身の結婚が背後にあるのではないかと睨んでいる。
エヴァの成功により庵野は自身の生きる価値を見出すことができ、「(3)自分の価値を見出せない現代人のコミュニケーション不全」という問題が解決できてしまった。
さらに結婚により、人殺しの正当化理由として「愛する者を救うため」という理由が俎上に載ったものと推測される。
Qの次回予告においては、次回作では「ファイナルインパクト」が起こることが示唆されている。しかし、それが仮に起きたところで解決される問題は、上記のようなシンジ個人の問題点で、我々からするとどうでもいい問題である。次回作はかなり小規模な作品になるんじゃないかと個人的には思う。
水商売の女を誘う→手軽にヤりたい
という短絡的思考しか出来ない馬鹿だから水商売に遊びに行かざるえないのでは…。
大体、水商売の女はプロなので一般人よりよほどヤれないだろう。
駅前の立ちんぼ捕まえてヤった方が手軽。
水商売の女が仕事でチャージ料金を貰っているので優しくしてくれるのを本気の好意ととらえる様な馬鹿はそこまで考えられないか…。
私には、おじがいる。母方のおじだ。
おじが住む実家には、私の祖父がいた。
祖父はいわゆる「昔の親父」であり、家庭内のケンカや酒のトラブルが耐えなかったようだ。
お盆や年末年始のあいさつに行っても、孫の私と会話なんかしない。
つまらなさそうにしている私に声をかけたと思えば、「納戸に行って酒持って来い」と言った。
そういうとき、おじは実を縮こませてちびちびとキリンの瓶ビールを飲んでいた。
夜更けに私たち家族が帰るときには、たいがい自室でゲームをやっている。
丸まった背中をこちらに向けたまま、「気をつけて」と言った。
おじにまつわること――このあたりの経緯も含めて――を、私の両親はあまり話したがらなかった。
だから私も、無理に聞こうとはしなかった。
あんなに怖かった祖父は、見舞いのたびにやせ細っていった。
「酒持って来い」とは言わず、「気をつけてやれよ」とほとんど呼気みたいな声で言うだけだった。
そういうとき、おじの話題なんてこれっぽっちも出てこなかった。
同時期に、母方の祖母が認知症になった。
弄便などはしないが、短期記憶はからっきし、というレベルの認知症だ。
介護をする私の家族が一番悲しんだのは、祖父が闘病中であることを忘れ「あんなのは使いものにならねえ」と大きな声で言ったことだ。
母方の祖父を慕っていた私の父は、拳を握りしめて耐えていた。
私は、もうおじのことは思い出さなくなっていた。
しばらくして、癌の祖父が亡くなった。
法事の運びを打ち合わせるために、おじは10年ぶりに地元の土を踏み、認知症の祖母と会った。
「母さん、久しぶり」とおじが言うと、祖母は「お前さんは誰だね」と怪訝な顔をして言った。
正座したおじは、黙って涙を流した。
祖母の傍らにいる母は、諦念の眼をしているように見えた。
葬式の日。
見舞いにも来なかったおじが読んだ喪主あいさつは、空虚だった。
精進落としが終わると、おじは逃げ帰るように誰も知らない棲家へ帰っていった。
来月は、祖父の一周忌だ。
いきなり極論なんだけど、俺、万物の魂って同じものが入ってると思うんだわ。
実の話、生物から何から関係なく、この世に存在する万物すべてが俺なんじゃないかなって思うんだよね。
宗教臭い変な話でごめんね。俺自身も変なこと言ってる自覚あるよ。
でも例えばさ、突然自分の中に前世の記憶が蘇ったとしたらどう?自分の中に甦えってしまった記憶を他人のものだって言い切ることができる?
っていうのは、誰だって忘れていたことを突然思い出したりしたりすることがあるわけでしょ。
その記憶に対しては、それを疑うようなことはしないはずだよね。
でも、思い出すまではその記憶って存在してなかったことと同意といえるわけじゃない。
そしたらさ、その記憶が事実だったかそれとも後から作られたものかって、誰も判断ができないはずだよね。
記憶が多少捏造されるものだっていう自覚は誰もが持っていると思うよ。
でもそれは大人になってからの処世術のようなもので、子供の頃は自分に存在した記憶って事実と信じて譲らなかったと思うんだよね。
極端な話、記憶が間違ってことに気づくのってそれなりに大人になってからだったはずなんだ。
なのに記憶は嘘をつく。ときに記憶していたことが自分の都合によって歪められてたりすることだって容易にあり得るんだよね。
ってことはつまりさ、自己を形成するはずの記憶って間違ってる可能性があるということなんだ。
それって、記憶の正確さよりも、その記憶が自分の中にあるって思い込むことにこそ自己の連続性があるってるってことなんじゃないかな。
じゃぁさ、なんでみんな自分は自分で他人は他人かって思うかというと、そこに記憶の連続性がないからだと思うのだよね。
例えばさ、自分の中に蓄積されている数々のノウハウのうち、それを実体験と勉学による知識と全てを切り分けることって可能なのかな。
何となく自覚できているかもしれないけど、でもそれって、色々な経験を経ていくうちにどんどんと曖昧になっていくと思うんだ。
読書や勉強というものがひとつの自己における経験であるというのであればそうなのかもしれないけど、でも、読んだだけのはずのできごとをさも自分が経験した出来事だって思いこんでるかもしれない可能性を否定することは難しいはずだよね。
極端な話、現実と全く差異がない夢を見てしまった時、それを夢の記憶だと断言できる要素ってないと思うんだ。
少なくとも、今の世の中の技術では人の記憶を人の中に体験として流し込む技術はない。本や映像が追体験をもたらしてくれることはあるけど。
もし近い将来、記憶に対する研究が飛躍的に進んで記憶そのものの出し入れが自由になった時、自己と死に対する概念って大きく揺らぐと思うんだよね。
まさに攻殻機動隊の世界じゃないけど、自己を定義づけるもが何かっていう価値観が崩壊する瞬間になるんじゃないかな。
でも、そうして記憶の連続性さえ自覚することができれば、魂が継続していることって自覚できることになると思うと、永遠の命ってもう目の前まで近づいてきてるんじゃないかな。
あぁあ。どうせなら自分の記憶を記録して、未来の人間に埋め込まれることで自分の命の連続性を体感したかったなぁ。
四歳の親ですが子供が全く言うことを聞かないで、最近はあっかんべーとか作ってと頼んだものをきらーい食べなーいみたいにすんごくバカにされたり、スーパーで隙を見て一人で駐車場に走り出してどれだけ止めても後ろチラチラしながら走り去ったりするんすよ。
普段はひたすら耐えて冷静に注意できるよう頑張るんだけど、生理前に限界越えたらヒステリーをおこして「もーいやー何で片付けしてるはしから散らかしていくの?何で布団の上に水のはいったコップを置くの濡れてるよ?お母さんトミカ踏んでこけて足捻ったよ?何で何度言っても出したものを片付けないの?大掃除の時もサラダ油撒き散らすしもーやだーきりがない大嫌いもういやだーどこか行きたいー」等々怒鳴り散らしてしまい、そうしたら子供はこちらの顔色をうかがって言うことを聞く楽な子供になるのよ。
でもこれは全く良くないのはわかるから凄く反省して冷静になってから悪かったと謝るんだけど、虐待に走る親はこの楽さに溺れてしまうんだろうな。
今は鬼から電話ってアプリを乱用してる、夜寝ないのは朝起きないのはご飯を食べないのはこの子に悪いから怖がらせるのも仕方ないと、命にかかわる危険をおかしたら頭もはたく、この躾だから仕方ないとか完全に自分判断でやらなければいけないわけで、その判断が間違ってたら虐待になりかねないわけで、恐ろしいことだ。