2016-01-01

努力教」という言葉

http://kochineet.hatenablog.jp/entry/2015/12/30/094439

努力教の連中死ね」「この世は生まれと才能がすべて」って言ってる人との間に毎回すれ違いを感じるんだけど、「努力しろ」って言ってる人(例えば俺)の言い分としては「生まれや才能が大部分を占めるし人生運次第なのは十分理解できるが、じゃあ個人として自分人生に何ができるかと言えば、結局、努力しかないでしょ?」ということなのだ。

別に努力をすればどんな財産も栄誉も手に入るし、どんな職業有名人にでもなれる」と言ってるわけでは、全くない。

個人が自分人生をどうにかしようと行動したら結局それが努力なわけで(というか、努力という言葉定義がおそらくそうなので)、自発的に何かしようとするなら、努力という形式にならざるを得ない。

それを全く否定して、誰かから何かを与えられるまで人生のすべてをサボタージュするというのは、態度として取りうるし、現代においては可能でさえあるんだけど、それって社会に対して絶縁を宣言しているも同然なので幸福にもなれないし、持続可能性も低い。たぶん破たんする。

  • 俺はアンチ努力教マンだが 才能が全てなんて思ってない 努力教徒は自分の置かれた厚遇を理解せずに「現状に不満のある人間は皆努力してない(怠け者である)」と結論づけて人格否定...

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