>日本だと見栄の張り合いは「いやー今週殆ど寝てないわー」だが、彼ら彼女らの見栄の張り合いはいかに家族やプライベートも充実させて同時に成果も上げたかである。
日本の「いやー今週殆ど寝てないわー」は別に見栄じゃない。単なる自虐か、忙しい時の社交辞令。
性別逆転してみればわかるけど、そういう主体性あんまなくておとなしい奴って男女問わず日本人には掃いて捨てるほどいる。
んで、掃いて捨てるほどいる女性がみんな不倫してるかっていうとそういうわけなくて、大抵は「あんな事する奴はアホ」っておとなしいながらに思ってる
そういうわけで元記事の人は観測範囲がおかしくて「おとなしい女は不倫好き」という変な結論に達していると思われる
非モテのお前らがそういうおとなしい女に出会えないのは、お互い同性だけのコミュニティで生活しているからであるが、
実際のところ異性としか付き合えない奴の方が一般的に地雷扱いされがちなので、同性とばっかつるんでる奴は比較的害は少ない。あと一歩踏み出せばよいだけ。
たとえば、ドローンに液体を積んで無差別な何かをやらかす輩が現れたとして、どうやったら被害を最小に抑えられるだろう。
繁華街のゴミ捨て場とかなら、機体を設置した瞬間もわかりづらいし、そこから上昇しながら液剤を散布するだけでも、いろいろ厄介なことになると思うのさ。
その液体が可燃性だと、とても面倒だよな。
そこそこ人生に絶望してる人間が100万をドブに捨てる覚悟で創意工夫をすれば、とても鬱陶しい事件を起こすことだって出来るんじゃないかなぁ。
[追記]
別にドローンが危険だと言いたいのではなく、加害行為に知恵とアイデアを注ぐ輩にはどう対処すればいいのかなぁという、ボンヤリした考察です。
電車の網棚にガソリンを置くだけでとても嫌な事件を起こせると思うし、かといって乗客の手荷物に対して全数チェックは不可能だ。
まあ五百歩くらい譲って許すとしよう。
○○ハラって言われても全然イメージてきないし、なんのことかわからないだろ。
○○○○ハラスメント(以下、○○ハラ)これくらいの配慮もできてない輩しかいない。
これって知らん人を混乱させるだけの実はハラスメントなんだよ。早く気付いてほしい。
それでは最後にプチ氾濫しているけどさっさと○○○○ハラスメントに直したほういい○○ハラをどうぞ。
・マタハラ ← マハラジャみたいで楽しそうな印象を与えるので止めたほうがよい。
・アカハラ ← 普通に赤原さんっていそうだし、いたとしたら迷惑だから止めたほうがよい。
・アルハラ ← 最初見たとき、アルジャーノンに花束をハラスメントかと思った。そんなわけないけど止めたほうがよい。
レスにはないけど元増田へのブックマークコメントだと「音」だそうだ。
自分はその辺詳しくないが、ガルパンに出てくる戦車の効果音が、全部本物の戦車のエンジン音とか大砲撃った時の音、それもガルパンに出てくる車種の本物の音なのか、というのはわからないけど。
まんこがついてるだけで相手見つけるまではイージーモードなので
本当に気の毒な感じの不細工か
なんやで
そんなんメディアによう出んやろ
「飲み会での遅刻」、米国では最大のマナー違反 http://toyokeizai.net/articles/-/98156
しまった。米国である。私は英国在住のおっさん。米国には詳しくない。短期間いたことはあるが語れるほど詳しくない。英国の職場にも米国人はいるが彼らも英国では英国の郷に従っているであろう。既にコメント欄等でツッコミが入っており記事の違和感は明らかゆえ、私は英国の話をしようと思う。
ところでこの記事、連載の3回目のようである。回が進むほど内容に違和感が増す。ネタが苦しくなって来ていると推察申し上げる。住んでいたという知見だけで文化差を語って生業にしようとすると、外国をディフォルメし日本をパターナリズムで語り、差を大袈裟に書きがちである。なんとかケンミンショーとかグルメ漫画美味しん◯で大々的に持ち上げられる郷土料理が、そんな不味いもの普通の県民は食べないよね、というのと似た構造である。ブコメで指摘されているが、タイトルは飲み会だが本文は食事会、会食である。言うまでもなく会食での遅刻は日本でもかなりのマナー違反である。何の中でか明らかにせず「最大」と使うのは品の無い書きかただが、タイトルは筆者の方ではなく編集部が付けているようにも思う。
英国人も確かに仕事の終わり時間はキッチリである。しかし仕事の管理はキッチリではない。時間が来たから帰る。仕事が途中でも帰る。それだけのことである。これは時間管理がしっかりしているなどと殊更言うような話ではない。エリートの話はしていない。中間層の話である。
上を目指しているエリートは時間もキッチリ、仕事もキッチリである。時間管理のプライオリティがかなり高い。会議は厳選、会議前のメールのやり取りで大体決まってしまえば下からでも会議の中止を言い出す。このあたりは是非日本も見習いたい。一緒に出張に行くと分かるのだが、実は必要があれば夜も早朝も仕事をしている(出張で暇だからではなく)。ただそのことは見せない。日本だと見栄の張り合いは「いやー今週殆ど寝てないわー」だが、彼ら彼女らの見栄の張り合いはいかに家族やプライベートも充実させて同時に成果も上げたかである。試験前の「全然勉強してないわー」合戦みたいなものである。違うか。いや本質は違わない。
約束の時間を守るかに関してはエリートも含め日本人より遥かにルーズである。前の会議が長引いた、道が混んだ、電車が遅れた。何か問題が?それは言い過ぎで待たせた非礼は詫びるが、自分が悪いのではなく運が悪かったので、日本人のように遅れの保険に15分前に着いておくなんてことはお客さん相手でもない。だから結構な頻度で遅刻する。5分の遅れに詫びの連絡を入れておくなんてことは思いつきもしないだろう。走っているのはひったくりくらい、というのは外国で日本人がよく言う冗談で、冗談以上としていいのかはどうかな。確かに走っている人は少ないけど、それは記事のように前もっているからではなく、単に遅れたら遅刻するだけというのが自分の感覚値に近い。ここは英国でも米国でも変わらないんじゃないかな。
ソーシャルな場でホストは15分前から応接するのは英国人もそうだが、日本だってそうじゃない?日本人ゲストは15分前をターゲットに来る人も多いから25分前から応接してよとホストにリクエストしたら日本人はそんなに早く来るのか、クレイジーだと言われたな。
ここまで書いてきて思ったのだが、少なくとも英国の場合、オフィシャルで人数が少人数以外の場合は30分前にスタンディングドリンクの談笑から始めるバッファー時間を作るから、着席スタートに遅刻ってそもそも稀だよねと思った次第である。裏を返せば時間厳守の文化ではないということだよね。
すごい面白かった
とにかく明るい安村はわかりやすいから売れて当然だと思った。いきなり見ても面白いもん。
別に徒歩圏内に美術館、博物館があることでも、画家の名前が分かることでも、都心に住んでることでもないんだよ。
単純に、
この2つをなんとなく持っている事なんじゃないかな。
知ってみたい、行ってみたい、経験してみたい、こんな感情で新しい事に挑戦する。
物理的距離が狭まることで、何かしてみたいという感情が高まることは素晴らしいことだよ。
でも、たとえ田舎の人でもルーチンの日々から抜けだして、何かをしてみたいって気持ちは少なからずあるんだよ。
だから、文化的素養なんていう絶対値の分からないもので人を判断するなんて、まして物理的距離で素養そのものを判断するなんてことは間違っている。
ただ、自分が楽しんでいることを皆にも楽しんでもらいたい。
それでいいじゃないか。
昨日仕事納めがあり、年末年始休みということで実家に帰るために空港へ向かっていたら社長から電話
俺は別に社長の直属じゃないし社長に近い地位にいるわけでもない。
俺「えっ今実家に帰る途中なんですが」
社長「なんでだ!?就業時間以外は自宅待機に決まってるだろ。なんで勝手に動いているんだよ!?」
俺「他の社員もみんな帰郷とか旅行とかしてるはずですが、、、」
社長「他は他、お前はお前だ。俺が呼んだら24時間365日すぐ駆けつけろ!いいな?
社長「やめろ、こんなこと言わなくてもいい。他の社員にも言うんじゃないぞ」
俺「あのもうすぐ飛行機なんですが、どうしたらいいでしょうか」
社長「わかった。今日はしょうがない。だがこれからは勝手に遠方に行くことは許さん。
お前はずっと俺のそばにいればいいんだ!」
これで電話を切られた。
昼間あった釣りなしの実話なんだけど、どうしたらいいんだろう。
こっちはTVもパソコン用TVチューナーもワンセグケータイもない、放送法の契約をしなくてよい、正当な立場なのに何度も契約を迫ってきやがって。
さっきなんか午後九時にやって来た。
こっちが説明してると、途中で「じゃあ、いいです。また来ます」とか言って帰りやがった。
頭にきてクレームの電話入れようとしたら、受信料に関する電話は午後八時までだと。
まず、乳房全体を甲、左乳房を乙、右乳房をπとし、私自身を珍、相手の女性を萬とする。
珍は日常的に萬の甲および、乙またはπを崇拝しているものとする。珍は萬の甲および乙またはπが大好きであり、常日ごろから甲および乙またはπのことを考えて生活をしている。そのため、珍は甲および乙またはπの写真や映像などを閲覧することが毎日の楽しみでありそれこそが生きている理由であると言っても過言ではないのである。
さて、珍は萬の甲および乙またはπが大好きであるので、当然のことながら萬の甲および乙またはπに触れたいという願望を常に持っており、切にそれを望んでいるものとする。できることなら可能な限り長い時間、萬の甲および乙またはπに触れていたい、もしくは揉みたいと考えている。実際に揉む機会があった場合に備え、すでに映像資料で研究し尽くしてある事を最大限に活かすべく、やさしく包み込むような手の全体の動きと、スイッチとしての役割をもつ乳頭(以下chikubiとする)への適度な刺激を同時に行えるようにイメージトレーニングを欠かさず行っている。
本題に入ろう。
先述の通り、珍は萬の甲および乙またはπそしてchikubiが大変大好きであるため、実際に触れたらそれはそれはさぞかし気持ちのいいことだろうという期待を抱いている。見るだけでは満足ができず、できることなら触りたい、揉みたいと切望している。よくよく考えてみるととても不思議なことだが、この「触りたい、揉みたい」という感情にはなぜか「触るときっと気持ちがいいだろう、揉むときっと気持ちがいいだろう」という感覚がセットになって備わっている。それは、モフモフの猫や犬を撫でると気持ちがいい、という類の感覚と同じものだと思っていたが、それがどうやら違うようなのである。この場合の「気持ちいいだろう」という感覚は、己の性感帯を触られた時に感じる快感と同類のものが得られるのではないか、という意味での「気持ちいいだろう」という感覚なのである。実際には触るのはこちら側であり、こちら側にあるフィードバックは手のひらの触感だけのはずだが、なぜか性感帯への刺激のような快感がこちら側にもあるのではないか、こちらの射精に繋がるような快感が得られるかもしれない、というような錯覚のような思い込みを期待として持っているのである。つまり、自身のお珍棒様へのシコリスティックが気持ちE というのと同様の事象が、萬の甲および乙またはπを揉みしだいた場合にも起こると期待してしまうのである。しかし、実際に萬の甲および乙またはπを触ってみると、当然のことながら手のひらには「柔らかいものを触った」触感があるだけである。それは悪いものではない。だがそれは、期待していたものとは違ったものであり、ここに期待値との落差がある。
ところで現代社会は便利なもので、大抵の問題は金銭の受け渡しで解決することができる。望む者がいて提供する者がいる、その両者の間を金銭が移動することで合法的かつ速やかに需給が満たされるというのは本当によく出来たシステムである。珍が萬の甲および乙またはπに触れるためにデートに誘ったり着飾ったりする必要がない。これこそ文明の賜物であると言わずしてなんと言おう。
今宵もまた珍は萬の甲および乙またはπを欲したため、うだつのあがらない労働をすることで得た金銭の力を利用することによって問題を解決したのである。
おっぱいやらかかった。めんどくなったおわり mn3
馬鹿力リスナー歴5年だけど、未成年を狙った犯罪だなんてネタにできないと思うしその辺のデリカシーは持ってると思うよ、最近の伊集院は。溝男の場合は、一ひねりを入れた笑いとしてしゃべってたけど、今回のは無理でしょう。
クリスマスが週末という曜日の並びから、「ひょっとしたら9連休になるんじゃないか」という期待をよそに、月曜もしっかり働いってやっと今日から冬休みになったのだが、別段帰省の予定もなかったので、ひとつ映画でも観ようと、「クリード チャンプを継ぐ男」を見てきたら、わりと良かったので見所を紹介しようと思う。
ネタバレ上等で書いてるわけではないが、それでもほんのりネタバレはしちゃうかもしれないので、観る気満々のひとは読まないほうが良いかもしれない。
巷の映画紹介で紹介されてる程度に物語のあらすじを紹介すると、かつてロッキーと死闘を繰り広げた伝説の王者、アポロ・クリードの隠し子、アドニスが、自らの情熱を注ぐ夢として、ボクシングの道を選び、トレーナーを頼むため、すでにボクシングの世界から遠ざかっていたロッキーの店の門をたたく。初めは拒むロッキーだが、やがてアドニスとともに頂点を目指すというおはなし。
さて、このアドニスだが、とにかく周囲からの愛されっぷりがハンパない。
隠し子ということもあり、出自こそ施設だが、その後引き取られた家庭で良い教育を受け、投資銀行の社員になり、会社からは高級車で「家族2人で住むには広すぎじゃないの?」というような家に帰ってくる。
良い家で育ち、良い教育を受けた2世のお坊ちゃんなのだが、じゃあいけ好かない奴なのかというと、これが思わず可愛がりたくなる様な素直な良い奴で、まず自分を施設から引き取ったアポロ夫人、メリーアンに愛され、すったもんだでボクシングの道を志してからも、ロッキーは実の息子の様に愛情を注ぐ。物語中盤では恋人も現れ、終いには色眼鏡で見ていた様なストリートキッズたちまで彼を応援する始末。
彼は彼で、学のないロッキーを案じて、息子のごとく的確で愛に溢れたアドバイスまでする。
彼を包む環境そのものが豊かな愛で包まれており、妙にほっこりした気持ちにさせられる。
一方、彼が挑むチャンピオン、リッキー・コンランは、リバプールの港湾労働者の息子で、あまり良い教育を受けた風でないので、対戦前に相手を口汚く罵ったりするし、トレーナーとの関係も「こいつあんまり愛されてねーなー・・・」という気の毒な感じで、見ていて切なくなってくる。
黒人の方のアドニスの方が、良い教育を受け豊かな愛もあふれる世界で育った良い奴で、白人のチャンプが、下流から腕一本でのし上がったのに粗野でトレーナーにもいまいち愛されてない、という感じで、白人が主人公になりがちなアメリカ映画にあって、バックグラウンドの逆転現象がおきている。
物語の視点も偉大な父の名前を巡る2代目の苦悩だったりして、「下層からののし上がり」ではなく「恵まれた奴にもそれなりに大変な事はある」という方向からのストーリーになっている。
この映画は、無名のライアン・クーグラーの情熱に、シルベスター・スタローンが応えて、ロッキーシリーズを託したという。
その若造の脚本にのって出てくるロッキーのジジイっぷりといったら。
スタローンも真面目にやっていて、そのヨボヨボぶりは物語が進むにつれどんどん加速していき、絵面がNHKドキュメンタリーかよという感じになってくる。
中盤では、人種を巡るちょっとしたやりとりがあるんだが、そのピリッとした空気でまた、スタローンがボケることボケること。
スタローンを見て感じる「凄い人だけど、この人ひょっとしたらバカなんじゃないかなぁ」というイメージを飄々とやってしまう。
よくぞまあスタローンもこれを「よしやろうぜ」って言ったなと思う。
見所3:ボクシングシーンの迫力
ロッキーシリーズでは、どうしてもボクシングのシーンがスローモーになり勝ちなきがするのだが、今回はピチピチの若手が主人公ということもあって、なかなかのスピード感。
敵役のチャンプを演じるアンソニー・べリューは実際に英国チャンピオンでもあるボクサーという事で、迫力あるボクシングシーンとなっている。
画的にも、派手に血が舞う感じで、痛さが伝わってくる。
気になる点を挙げるとすれば、主人公アドニスは魅力的だが、どうしても「ロッキーの愛弟子」感が強い事か。
スタローンとしては2もやるぜといったとか言わないとかで、そうなってくると、「ロッキーのとこの子アドニス」が、ロッキーのジジイ圧を乗り越えて、本当に物語全体を支配する魅力ある主人公として独り立ちできるかがポイントのように思う。
そんな感じで、ちょいちょい「おっ」と思う見所もあり、全体としても派手な盛り上がりにこそ欠けるもが、親子愛、師弟愛を感じつつ、しっかりスポ根ものの感動が伝わってくる良い映画だとおもう。
年末にやる事が決まっていない諸兄、スターウォーズの盛り上がりについていけない方などは、こちらもどうだろうかと思う次第であります。