自己認識の話と、他者認識に必要という話は理屈でもつながってないので、そこんとこもうちょい突っ込んで説明してくれるとうれしい。
前レスの追記で書いたけど、こちらに移す。
自分がどういう人間であるかを説明するためには、一般的に所属とポジションで言うわな。
同時に他人について説明するためにも「こちら○○社の△△課の課長の山田さん」という所属とポジションで説明するでしょ?
説明しやすいポジションをもってないときに、別の表現でどんな人かを説明することにはなるんだけど、ポジションがあるならまずはそれに基づいて説明する。
だいたい人は自分をアイデンティファイするのと同じ方法で他人を認識するのだということは、この例でわかる?
(極端な例では、子供の配偶者の所属を気にしたりとか、離婚・再婚に関するスティグマだとか、個人で仕事してる人を社会的に下に見たりとか)、そういう概念を持っていない、あるいはそういう概念に縛られたくないと思ってる人もたくさん知っており、傾向として後者の方がどんどん大きくなってるから、日本社会もそれに合わせて変わらざるを得ないだろう、と考えている
日本はそもそも人間の流出入が割合として少ない国なので、そうそう変化はしないと思うけどね。
まあ少なくとも直近の話ではない。
「自分にとっての集団」という認識ではなく、あくまで「集団の中の自分」という認識での集団とのかかわり方が、歴史的にはともかく、今の日本人のスタンダードではないかと思って...
この感覚的な話が通るならわりと話が早い。 そうしなくても良い人が別姓を選ぶわけだから、議論すべきはあくまで他人をどう認識するかってことじゃないのかな。 子供は? という...
子供は?望んでその機能を捨てたわけではないのに、使えないの? いや、「日本人が所属により自己をアイデンティファイする傾向」というのは育ちにより刷り込まれる単なる習慣で...
君がそのレスで言っているのは「統一的な呼称がなくても、何とかやっていけるよ!」って話じゃん。 君の言うとおり、これは習慣であり最初から習慣をもってなければ何が失われるわ...
自己認識の話と、他者認識に必要という話は理屈でもつながってないので、そこんとこもうちょい突っ込んで説明してくれるとうれしい。 おそらく君は、そういう概念を持たずに過ご...
自己認識の話と、他者認識に必要という話は理屈でもつながってないので、そこんとこもうちょい突っ込んで説明してくれるとうれしい。 追記で書いたけど、こちらに移す。 自分がど...
自分がどういう人間であるかを説明するためには、一般的に所属とポジションで言うわな。 同時に他人について説明するためにも「こちら○○社の△△課の課長の山田さん」という所...
一体どのくらいの人が家族の統一名称を認識の手がかりにしていたか、に関してはピンと来ないんだが、それはもはや個人の経験に依存するからここでは結論が出ないかなと思う うー...
横だが 日本人には自分の所属を気にする人が多いという印象がある。 家族関係については、「所属」と言っても「特定個人とどういう関係か」が重視されるのであって 「どの特定の...
うーん、俺は人は対象の把握の仕方をケースによって変化させることは、少なくともしたがらないものだと思っている。 一方で「○○社の△△課の課長」という認識をするならば、「山...
「山田さんちのお父さん」はその人の子供から見たその人の属性でしょ。 「集団名+役割」ではなく「個人(この場合は子供)から見た役割」。
いや違うよ。家族の中の「役割」だ。 だから、「山田さんちのお父さん」というとき、同時に子供に対しては「山田さんちの息子さん」と呼ぶ。
「山田さん」じゃなくて「山田さんち」か。すまん。 でもそれって不自然な言い方では?「山田さんち」なんて使う??
横だけど、少なくとも、1980年代の静岡県では普通に使ってましたよ。 ニュアンス的にはこんな感じの省略形 山田さんの家の○○ ↓ 山田さんのうちの○○ ↓ 山田さんちの○○
地域社会が希薄になってきたからねぇ。「家」という集団そのものとのお付き合いを実感できる機会は減ったけど、田舎はもう少し残っているよ。 山田太郎さんの息子さんが引きこもり...
あー、ずっとマンション育ちなんだわ。 同じ階の人の顔くらいは知ってるけど名前は勿論姓も知らないのが当たり前の環境で育ったからそういう感覚がない。 今は隣んちの人は家族間で...