2015-09-09

対戦ゲームには戦争をなくすヒントがある

対戦格闘ゲームが出た頃は、他人同士が隣り合って対戦をしていた。

声かけて、相手の了承が得られればスタートするのだ。だから楽しく対戦できないヤツは疎まれた。

隣だと遠慮するからという理由で、対戦台は対面式になった。これによって、対戦は爆発的な流行になった。

それでも反対を覗きこめば相手の顔が見えた。良い対戦ができれば反対側に行って声をかけたり、失礼な戦い方をする奴がいれば相手にたしなめられたりした。

そこには、相手の顔が見えるという理由社会形成が行われていたのだ。

ところが対戦はオンラインになって状況が変わった。

相手の顔が見えない、つまり相手の生活の背景が見えなくなったから、勝つことだけに執着できるようになったのだ。

対戦そのもの楽しいかどうかは関係がない。相手が人だろうがコンピューターだろうが、自分スコアを少しでも上げるために持ちうる手段全てを使って勝つことが命題になってしまったのだ。

ここでは有無ではなく確率の話をしたい。

隣り合って対戦をしているときだって、勝ちを至上とする存在はいた。しかし、オンラインに比べれば少なかったはずだし、そうした存在に対して社会的アプローチがされていたはずだ。

身近に存在を感じられる対戦は社会性を育んだ。

しかし、相手の顔も生活背景も見えない敵との対戦は、ただシステマチックに勝利することだけを育ててしまった。

これを戦争に置き換えて考えてみるとどうだろう。

世界中ネットワークが普及した今、遠い他国生活も身近に感じられるようになった。

しかし、同時に、対戦ゲームキャラクター操作するように、遠く離れた兵器をも操作することを可能にしてしまった。

指導者の舵取り次第では、戦争を止めることも冷徹ものにすることも可能になってしまったと言えるわけだ。

スプラトィーンが奇しくも証明してしまったものは、日本人全員がスナイパーとしての素質を持ち合わせていることだった。

プロゲーマーの行き着く先が兵器利用にならないように、ゲーマー達には倫理教育が求められている。

記事への反応(ブックマークコメント)

ログイン ユーザー登録
ようこそ ゲスト さん