子供のどんなところが苦手なの?
ということが少しずつ分かってきた。
言いたいことを言うと、みんな離れていってしまいそうで怖かった。
だけど本当に深い関係になりたいと思ったら、言いたいことを自分の中に押さえつけて我慢するのは良くないと分かった。
言いたいことは言う。
もしそれで離れてしまったら、その程度の関係だったということ。
それでいこう。
ちゃんと節度は持つとも。
これはきっと、面倒くさい女とは思われない行動だろう。多分。
チンコをマンコに入れたくてしょうがない10代のころに、ちゃんと挿入できて
顔じゃなくて、単純に学校内のカースト上位であることでもいい。
ただ、経済力が問題になるくらいの年齢というのは、禊としては遅すぎる。
そんな年まで放っておいたら精神に毒が回る。
私は子供が苦手だ。
嫌いというよりは苦手という感じだと思う。
今大学生なんだが、地元の友達に1才くらいの子供がいる。もともと、地元の友達とは進学するにつれ会う回数は少なくなってたが、彼女に子供が生まれてから完全に疎遠になった。というか、私から進んでなった。みんなが、子供をかわいがるのをどうしても理解できなかった。怖かった。友達の子供に会いに行って遊んだりプレゼントをあげたり写真を撮ったり。その写真をSNSにアップしたり。子供の写真をアップしたらかわいい、会いたいとコメントしたり。本当に思ってるのか?全員ミュートした。
世間話的に結婚したい〜、子供ほしい〜、という話になる。そんな時、私子供苦手なんだよね、と言うと自分の子供ならかわいいとかそういう人に限って親バカになるんだよとか言われる。確かに〜、とか適当に返すけど本当にそうなんだろうか。かわいいと思うのか?ネグレクトしてしまうのではないか?と考えてしまう。怖い。
電車で、同じ車両に子供が乗り込むが嫌だ。だから、ホームで、同じ車両になりそうなら移動する。
これでも、昔より良くなった。テレビで見るのもダメだった。これは猫や犬もそうなんだけれど、テレビで見るとかわいいと思っても、実際に見ると怖い。(一緒にしたら怒られるだろうか。)犬猫は昔は全然怖くなかったし、好きな部類にいる。そう考えると、犬猫と同じくらいは好きなのかな。
いつか苦手を克服できるんだろうか。別に克服しなくてもいいんだろうか。
広島の人間でもないし長崎の人間でもないし、そもそもただの若造だし。
自分自身や大切な身内が死んだとき、知らない誰かとはいえ「死んでよかったよ」って思われるのは、悲しい
悲しいというか、なんだろうな、ただひたすら空しい
戦争なんて空しいだけだ
お花畑脳だと笑ってくれていいよ
顔でモテても救われないがな。
今夜のカンブリア宮殿で「北原病院グループ」が紹介されていた。
「北原病院グループ」の病院では、入院患者の家族にボランティアスタッフとして掃除などをしてもらい、ポイントを与えるというのがやっていた。
このポイントを使うことで、月7万ほど医療費が節約できるみたいな話だった。
現代と身分社会との間なら、国民皆婚時代なんだから、単純に女にモテないことが現代ほどクリティカルな影響がなかっただけでしょ。
男でも女でも、成人までの間にモテないメンタルが出来たら取り返しがつかないんだよ。
就職を期にいきなり女からちやほやされるようになったところで、一度女の悪魔の顔を見た以上、もう信用することはできなくなるわけ。
IT企業に就職して二年目なんだけど未だに報告連絡相談ができない。
他にも色々できないことが多い。
できるようになったことが非常に少ないというかどれができるようになってるのか全く分からない。
上手く動けない。
上手く動いている部分がわからない。
どうにかしたいんだけども一体どうすれば・・・
中学生になって最初の音楽の授業で練習させられたのがマイバラードだった。
当時はパッとしない曲だと思ったし、合唱ってのを授業でそれまでに比べたら割と本格的に練習させられるってのが初めてで退屈だと思った。
でもそれから15年以上たった今でもたまにyoutubeで聞く。
他にも合唱コンクールで歌った曲、とくに時の旅人や、卒業式で歌った旅立ちの日にも聞く。
合唱曲って曲自体のよさと思い出が合わさってとんでもない郷愁を感じさせるんだよな。
んでだいたいyoutubeで合唱曲のコメントに、優勝するぞとか書いてあるんだよな最近は。
昔はyoutubeなんかなかったけど、合唱曲を通して感じる根っこのメンタリティーは何も変わんないだなと思って不思議な気分になる。
つか時の旅人の完成度やばくね?
なんかすげー完成されてる感じ。
海外のとある街で、深夜にバックをいくつも抱えた旅行中の女の子から道を尋ねられた。
治安の良い場所ではなかったから、駅まで送ってあげることにした。
そして、その途中でギャングに襲われた。
救急車が来るまでの間、警察官からもらったタオルでおびただしく出てくる血を抑えながら、
僕はひたすら彼女に謝りつづけた。
彼女が救急車で運ばれた後、警察とその場所で実況見分が行われた。
テレビ局が来て、僕を間近で投光器で照らしながらカメラを向けた。
僕は血まみれの服のまま殴りかかり、警察に止められた。
僕は安アパートで一晩中血まみれのまま過ごした。
朝まで寝ることは出来なかったが、記憶はない。
僕が体の異変に気付いたのは、それから数か月後の帰国後だった。
深夜に歩いていると心臓がドキドキして、空中から脂汗が出てくる。
その場で民家の塀に背中を押しつけたまま、身構えながらその小学生が通り過ぎるのを待った。
歩いている途中で自分の気持ちがまるで遊園地のバイキングのようにグラングランと大きく揺れ、
その場にしゃがみこんでしまうこともあった。
布団に入って明かりを消すと、後悔と罪の意識が黒い塊となって自分を襲ってくる。
あの時の光景が延々と脳裏に繰り返され、布団の中で何度も叫んだ。
毎日酔いつぶれるまで酒を飲み、明かりを煌々と付けて、ラジオのボリュームを大きくして、
夜がしらじらと明ける頃に、やっと浅い眠りにつくことが出来た。
当時はPTSDという言葉はまだなく、僕はそれを『心の後遺症』と呼んでいた。
もっともひどい状態で約5年。
今、20年以上たっているが、今でも似たような状況の場所と時間は避けて歩く。
何をもって直っていったのかは分からない。
巨大な、でも一粒づつしか落ちない砂時計のように、変化していったとしか言えない。
心療内科にも行っていないから、行った方が良い、行かない方が良い、その両方の助言をすることもできない。
でも、一つだけ。20年以上たって、今でも自分を許すことも出来ないけれど、
そうした事件があったということだけは認めることが出来た。
そして人よりも少しだけ、誰かが傷つくことに繊細になることが出来た。
震災から4年経ち、物理的な復興が進んで世間から忘れられ始めている今でも、
あの震災で僕と同じように、心に傷を負い、人目に付かない場所で苦しんでいる人がいることを想像することが出来た。
今でも定期的にボランティアに行っている。
僕には助言することが出来ない。
失恋した人や仕事で些細な失敗をして落ち込んでいる人にも優しさを向けられる、
そんな心の傷に繊細な人にしてくれる。
そしてそんなあなたの優しさがあなたに帰ってくる時がきっとくる。
少しでも早く良くなってください。
大丈夫。きっと良くなる。