全く乳首で感じた事なかったけど、俺もいじくってみることにした。
二日目なのでまだ全然感じない。昨夜右手乳首、左で息子を刺激してみたが相乗効果は無かった。
そう見えちゃうのか…
普通にさ、自分がお勧めしたものを他人が喜んでくれたら嬉しくない?
共通の話題もできるし。
それは自分が優位に立ったことの嬉しさだと言われてしまうとそれまでなんだけど…
でも明らかに私のお勧めを使ってるのに、さも自分が発見したかのようにそれを他人に薦めて他人と「あれ良かったね!」なんて話で盛り上がってるところを見ちゃうと「除け者にされてるなぁ」って気持ちになる。
そういうの凄く寂しいのよ。
今のところ
私「こんなお店見つけた!誰か一緒に行きませんか?」
他人A「わーBさん!こんなお店あるらしいですよ!行きましょうよ!」
他人B「いいですね、二人で行きましょう!」
って感じでもう泣きたい。
10年以上前に自分のPCが手に入ってネットをはじめた時は、ある程度すると更新してるかなと巡回するサイトが複数出来てきた。
今はそれらをフィードで管理するようになってから定期的な巡回をしなくなってしまったし、ネットサーフィンをする情熱も湧いてこない。
SNSをひと通り見て、フィードで気になるトピックだけ見て十分になってしまった。別にこれ以上何も求めてもいないけど、楽しさは完全に無くなった。
行きつけじゃないバーでもどこでも自分の知り合いがいない場面ではじめて人と知り合う場合、どういうキャラで行くのか迷う。
いじり側になった方がいいのか、いじられ側になったほうがいいか、テンションは高いか低い。楽しなと感じて過ごせる人といる時の自分の感じはどうだったかな。
そう考えると相手に合わせて自分のキャラが結構幅がある事に気がつく。周りを見るとその幅が狭い人もいる、自分があるというやつなのだろうか?
最近仲良くなったクラスメイトの男子に小説を貸すことになったので私も「なんかおすすめあったら貸してよ」と言ったら、次の日ラノベを渡されました。
横だけど、このケースで、具体的になにを「自習」すればいいのか分からない。
http://anond.hatelabo.jp/20141002025624
自称・パッと見はイケメンってのが勘違いだったりしたら面白いと思った。
コミュ障つらいって言ってる人って、口ばっかりで、実は本当に人とコミュニケーションしたいと思ってなさそうな感じある。
人と会話しながら、楽しく時間を作りだす、ということじゃなくて、本当は単に「ボクの話したいことを聞いてくれない!」って子供みたいにスネてるだけというか
コミュニケーションスキルが足りないせいでも、場馴れしてないせいでも、キモイ外見だからってせいでもなくて
コミュニケーションを取りたいと口では言ってても、本当は、相手が今どんな気持ちなのか理解する気がない、人の話を聞く気がない
『1度教えられたことは2度聞いてはいけない」
いや、本当に忘れちまったら聞くしか無いんだが
聞いた瞬間お前の評価はガクンと下る。
お前を教えるために給料をもらってるわけじゃない
お前に物を教えるたびに500円失うぐらいの苦痛があると思え。
自宅で「自習」ぐらいしないと、来年可愛らしい後輩が入ってきて
追い抜かれて、舐めた口聞かれるようになって
そのうちお前の上司になる。
』
勘弁して! せっかくかわいいのに、男性がガッカリしちゃう女性の趣味「お人形集め」「アニメオタク」 | ニコニコニュース
http://news.nicovideo.jp/watch/nw1255577?ver=video_q
けど非難するのは程々に。
コメ欄見ると人間好き嫌いあって当たり前という基本を見落とした小競り合いばかりで悲惨なことになっている。
「アニオタはいいけど腐女子は勘弁」ってツイートに対して、別に自分に向けて直接言われた訳でもないのに過剰反応するツイートがあったり。
別に腐女子を嫌うのも自由だろうに。元記事のアンケにしてもそうで男達はアンケに答えただけで当該の趣味をもつ女を直接非難してるわけじゃない。
それに対して「他人の趣味をとやかく男どもの器の小ささよ」などと反応してるのは過剰反応ということ。
なるほど「繋がりある人間の趣味をとやかく言う」奴は器が小さい。けど「他人」の趣味を「嫌う」だけなら自由。
趣味をもつのが自由なら趣味を嫌うのも自由って基本が見落とされたままマトモな相互理解があるとは思えない。
ここでは男女関係が念頭に置かれているので恋愛を例にとるならば、互いに趣味の好き嫌いがあることを想定した上で共通点と相違点を発見していき恋人との間の最適な妥協点を見つけていくものだろう?
そんな対話的姿勢に欠ける異性とはうまくやっていけそうにないと思うのは当然のことだ。
「ギャンブルする男は無理」っていう女にしてもそう。ギャンブルする男を一緒くたにしてる時点で対話的姿勢がないことがまず疑われる。
むろん精密な物言いが不要な場において雑なまとめ方をしてるだけかもしれないが、明らかに不用意な一般化をしてる場合には「ちょっとこの人はなぁ」と思われてしまう。
まぁ人間感情的になる時もあるから仕方ないけど、そういうことが積み重なるとあまり関わらないほうが良い人なのかなと思ってしまう。
意中の男性がギャンブル男じゃないからって不用意にギャンブル批判するとそんな目で見られてしまうこともあるということだ。
一応一部の読者のために念を押しておくが、ギャンブルに関して「現に借金トラブルに巻き込まれる事例が沢山あるだろ?特に結婚なら家計の問題になるから嫌われて当然」
という定番の意見があって、それを心の中で反復した人も一定数いると思うが、まさにそういう意見のことを不用意な一般化と言っている。
別の事例として自分はタバコするのにタバコする女は駄目って男を考えてみよう。一見すると自分勝手だが何も矛盾した態度ではない。嫌いなものは仕方ないのである。
こういう「一見矛盾しているようでよく見ると矛盾してないケース」というのは対話的姿勢の試金石になる。人間はつい安直に批判する誘惑にかられて重箱の隅をつつきがちだが、
そこを落ち着いて見定めることのできる人とはうまくやっていけそうだなと信頼できる。それが信頼される人間の必須条件である。
いくら(金と能力を)「もってる」人間でも落ち着いて物事を判断できない人間は信頼されない。なぜなら金も能力も使い手の判断次第で毒にも薬にもなるからだ。
一般に「~のくせに」という言い回しを多用する人間は危ない。「女のくせに」「東大生のくせに」といった言い回し。自分の主張を乱暴に通すには便利な言い回しだが
内心白い目で見られることは覚悟したほうがいいだろう。一度ならずも二度三度と積み重なるに従って「あっこの人はそういう人か」と思われ始める。
「そういう人」とはつまり認識の粒度が粗すぎる人だ。認識の粒度が粗すぎる人は「矛盾」という言葉も多用する。思いやりなく雑にしか物事を見れないから
表面的な情報を切り取ってその対立を発見するや思慮浅く「矛盾」とみなし「~のくせに」という論法に持ち込むわけである。
そんな人は人生の早い段階で人間として大切な習慣を身につけ損なったのだろう。世間や自分の脳内にあふれた安直な結論を懐疑して
1つ1つ自分の目で確かめて自分の頭で考えるという習慣を残りの人生のどこかで身につけない限り、相互理解のないまま孤独に苛まれて生きていくのだろう。