自分への戒めとして記しておくことにする。
いわゆる「理系女子」の略語である。私はこの言葉がなんとなく嫌いだ。
進路は文系の私立大学を選択した。だがこれは不本意のものだった。
私は小学生の頃から数学が苦手で、定期試験の大問1の単純な計算問題すら満点を取れないような子供だった。
中学に上がり学習塾にも通ったが、私は中学3年の冬の出来事を一生忘れないと思う。
入学試験を控え塾では勉強合宿が行われ、朝から晩まで過去問を解かせられていた。
周りが高得点を取って上のクラスへと上がる中、私は不安と焦燥感でまったく頭が回らず、目の前の数列をただ目で追うことしかできなかった。
空欄が多い解答用紙を見て、鉛筆の音だけが響く静かな教室で、先生は言った。
今まで学校に通ってきた中で、そんな言葉をかけられた生徒は私以外にいなかった。
模試の結果と相談する中で、私は文系以外の道は選択できなかった。
私は理系への憧れを今だ捨て切れていない。
試験としての「数学」は苦手だったが、学問としての「数学」は好きだった。
どのような構造をしているのか。
どんな反応をするのか。
こういった身近な疑問から、果てには宇宙の遠い星々への距離まで計算できるのだから、
それに反して、私がいまやっていることは何なんだろう。
古典の文法を覚えて、昔に書かれた文章を読んで、一体何になるんだろう?
古典作品を研究することはとても有意義なことだと思う。昔の人がどんな生活をしていたか知ることによって、
私達の未来へ役立てることもできるだろう。
でも私がしたいことはそれじゃない。
古典の学習が自分の身の周りに還元されていくことはあるのだろうか?
今私が使っているiPhoneだって、エアコンだって、電灯だって
偉大な先人が発明したからその恩恵を賜ることができているのだ。
今私が学んでいることは、私にとって全く役に立たない。
私は「リケジョ」が心底羨ましい。
そして自分の発見が巡り巡って私の友人達に素晴らしい将来を提供する様を見届けたかった。
多分一生この想いを抱えたまま、私は鬱屈とした日々を送っていくのだと思う。
人生のなかで、何かを始めるのに遅すぎるという事は無い。なぜなら今の自分は、これからの人生の中で一番若いからである http://archarx.tumblr.com/post/78437192862