2014-09-17

私は理系になりたかった

自分への戒めとして記しておくことにする。

最近、「リケジョ」という言葉をよく耳にする。

例の偽装論文の話題でもよく取り上げられた言葉だ。

いわゆる「理系女子」の略語である。私はこの言葉がなんとなく嫌いだ。

理系」「文系」の括りでいくと、私は文系になる。

進路は文系私立大学を選択した。だがこれは不本意のものだった。

私は小学生の頃から数学が苦手で、定期試験の大問1の単純な計算問題すら満点を取れないような子供だった。

中学に上がり学習塾にも通ったが、私は中学3年の冬の出来事を一生忘れないと思う。

入学試験を控え塾では勉強合宿が行われ、朝から晩まで過去問を解かせられていた。

周りが高得点を取って上のクラスへと上がる中、私は不安焦燥感でまったく頭が回らず、目の前の数列をただ目で追うことしかできなかった。

空欄が多い解答用紙を見て、鉛筆の音だけが響く静かな教室で、先生は言った。

小学生からやり直したらどうですか?」

今まで学校に通ってきた中で、そんな言葉をかけられた生徒は私以外にいなかった。

私の数学への苦手意識高校にあがっても拭えなかった。

模試の結果と相談する中で、私は文系以外の道は選択できなかった。

私は理系への憧れを今だ捨て切れていない。

試験としての「数学」は苦手だったが、学問としての「数学」は好きだった。

科学」や「物理」にもたいへん興味をそそられた。

身の回り物質は、何で構成されているのか。

どのような構造をしているのか。

どんな反応をするのか。

こういった身近な疑問から、果てには宇宙の遠い星々への距離まで計算できるのだから

理系の分野の学問はとても素晴らしいものに思えた。

それに反して、私がいまやっていることは何なんだろう。

古典の文法を覚えて、昔に書かれた文章を読んで、一体何になるんだろう?

古典作品研究することはとても有意義なことだと思う。昔の人がどんな生活をしていたか知ることによって、

私達の未来へ役立てることもできるだろう。

でも私がしたいことはそれじゃない。

古典作品が読めたって、月にいくことはできない。

古典学習自分の身の周りに還元されていくことはあるのだろうか?

今私が使っているiPhoneだってエアコンだって、電灯だって

偉大な先人が発明たからその恩恵を賜ることができているのだ。

そしてそれらはすべて数学科学物理学結晶だ。

今私が学んでいることは、私にとって全く役に立たない。

私は「リケジョ」が心底羨ましい。

偉大な先人たちと肩を並べて研究ができたらどれだけ幸せか。

先人たちの残した難解な数式の研究に没頭してみたかった。

そして自分発見が巡り巡って私の友人達に素晴らしい将来を提供する様を見届けたかった。

多分一生この想いを抱えたまま、私は鬱屈とした日々を送っていくのだと思う。

  • 人生のなかで、何かを始めるのに遅すぎるという事は無い。なぜなら今の自分は、これからの人生の中で一番若いからである http://archarx.tumblr.com/post/78437192862

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