2014-05-21

大飯原発裁判で掲げられていた『司法は生きていた』の垂れ幕

はっきり言うと、気持ち悪さを感じた。



さっきからテレビで流れている大飯原発の再稼働の差し止め判決

判決自体に文句はない。

「そりゃ安全性に少しでも不備があれば再稼働は止めたほうがいいだろ」程度の考えだが。

裁判所前の映像が流れる。

そこで裁判所から出た人が掲げていた『司法は生きていた』の垂れ幕

見た瞬間、底知れない気持ち悪さを感じた。



ごく単純に解釈するならば、「私達の訴えが認められた」という意味であることは間違いないのだが、

司法は生きていた』…それをわざわざ言う必要性があるのかどうか疑問に感じた。

仮に訴えが退けられた場合、『司法は死んだ』とでも言うのだろうか。

司法は死んだ』…「司法機能は壊滅した」「日本司法は崩れ去った」とでも言うのだろうか。

たった1つの判決で。

しか地裁判決で。

市民団体弁護団のタッグチームは、得てしてこういう扇情的言葉を使いたがる傾向があるように思える。


また、こういう系統団体に共通する行動がもう一つある。

私の素人からすれば、裁判自分の訴えが退けられた場合「何が悪かったのか」と考えると思う。

「訴える内容が悪かった?」「証拠が十分ではなかった?」「そもそも法律が不十分だった?」などなど。

彼らは恐らく「我々の訴えが退けられたのは、日本司法おかしからである」とする傾向があると思う。

今回の裁判以前にも、団体の方か弁護団の方かは知らないが、彼らは多分結構な数の訴訟を退けられた可能性がある。

そのたびに「日本司法は腐ってる」「市民蔑ろにする司法は恥を知れ」などと言ってきたのだろう。

確かに、裁判所判例主義や役所的なところがあり清廉潔白とは言いがたい部分もある。

しかし、ひとたび訴えが認められたものならば、まるで「日本司法が我々の正義に追いついた」と言わんばかりの、

ある種の「傲慢さ」をひけらかしている雰囲気が、そういう雰囲気が彼らから醸されているように思える。



私は、『司法は生きていた』の垂れ幕から、自身を省みず他者責任をなすりつけたい醜悪さと、自身の考えが正義だと考える傲慢さが感じられた。

それはまさしく、昔、私をいじめていた人間にそっくりの性格である


今回の「気持ち悪さ」は、私のトラウマを呼び起こした。

訴えたろかな

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