燻製って楽しいよね。ベーコンとか適当に作っても市販のとは天と地ほどの差があるものができる。
それも晴れた土曜日の昼間とかから。それもちょっと燻す程度じゃなくて、数時間はスモークしてやがる。。。
燻製は楽しいし美味しいよ。でもさすがに集合住宅でやるのはやめようよ。
洗濯したての俺のワイシャツを燻してスモークするのは勘弁してください。
追記)
家ではとっても朗らかでひょうきんもので通っていた俺が、一歩外に出て
知らない人に会うととたんに硬直し、のどが変質して声がうまく出なくなり、
すぐに耳まで真っ赤になってまともに話すことができなくなった。
なぜこうなるのだろうとずっと悩んでいたが小2ぐらいでそれは人見知りというのだと知った。
だから自分は生まれつき人見知りという形質を持っていたのだと思う
大学ぐらいから努力してだいぶ克服したけど、人付き合いが不得意であることは自覚してるので
他の得意なことを生かせる仕事に就いたよ
子供を作って分かったけど、人見知りするタイプかどうかは6ヶ月ぐらいでわかる
しない子は全然しないよ
「メンヘラ神」などという名前で自傷写真をたくさんアップして挙げ句の果てに自殺してしまったという悲しい事件があった。誰から見ても、本人には明らかに死ぬ気のない、薄い自傷だらけで、まさに承認欲求の塊のような方だった。そしてその亡くなった方の本名は報道されていないのに、それにうんざりした彼氏が魔が差してしてしまったLINEが自殺教唆として逮捕され、実名報道された。
http://mainichi.jp/select/news/20140221k0000e040239000c.html
亡くなってしまったことについてはご愁傷さまとしか言いようがないのだが、実は周り(フォロワー)にも問題があるかもしれない。
あまり知られていないのだが、ツイッターには「自殺をほのめかしているユーザーを報告」という機能がある。
https://support.twitter.com/forms/general?subtopic=self_harm
これといって鍛えていなくても、腕力が強くて脚がはやい。
帰宅部のもやしのような男でも、運動部だった私より腕力が強くて脚がはやい。
それが単純にムカつく。
落ち込んだり疲れたり弱っているときに、こういう理由で困っています弱っていますと説明できない。
堅実で優秀なコミュ充も、怠惰で無能なコミュ障も存在するし、そこは全く関係ないから。
「俺が不幸なのは頭が良いからだ」と思ってるようだけどそんなことはないから。
不幸なのは頭が良いからじゃない。なんか欠けてる能力や知識があるから不幸なだけ。
(「私が不幸なのは繊細で純粋だから」って思いこんでる女も居るけど、同じ。なんか欠けてる能力や知識があるから不幸なだけ。)
仕事が上手く行かなかったり、彼女が出来なかったり、なんか孤独で不幸な感じがするのを、政治への愚痴にすりかえる。
なんで話の規模感を無駄に広げるの?なんで目の前の課題をろくに見ようともせず放置して日本の政治をドヤ顔で語るの?優先順位おかしくない?
http://anond.hatelabo.jp/20140221132243
元増田は釣りのつもりで書いたのだろうが、俺はかつての自分のことを言われたようで痛々かった。
ただ、最近は元増田のように「自分に自惚れて、周りが許せなくなる」とは思わなくなった。
いくら知識が身についても、プレゼン力が身についても、俺が他人に披露しているのは本からの借り物にすぎない。
それも本を読むことだけに必死になって本の中にある論理的関係を把握しないまま中途半端に用語や言い回しを覚えてしまうので、
気づけば自分の考えのなにもかもが論理関係がまったくない、エビデンスの剥がれ落ちた上澄みのパッチワークにしか思えなくなる。
それでもある程度、会話とプレゼンの練習をすると他人は俺のことを頭のいいやつだと扱ってくれる。
勿論お世辞もあるのでそういうところは差し引いても、俺は自分の頭のなかがパッチワークだとわかっているので過大評価だとどうしても感じる。
そうしているうちに気づくのは、他人は俺のことを評価しているんじゃなくて、俺の背後におぼろげながら見える本の内容を評価しているんだということ。
結局俺が読書して身につけたのは活字を右から左へ流すパイプ管になるスキルなんだなと思うようになる。
それよりかは自分の生活の中で得た知識でなんとか考えようとする他人のいかに偉大なことか。
俺はかつて読んだ本を引用せずには考えを進めることはもうできないんだ。
今、俺はこんなパイプ管になるのを止めるにはどうすればいいかを考えている。
おそらく、本を読むのをやめたって悩みは解決しない。
なぜなら、俺がかつて本から受け取った様々な衝撃は、もう俺の自我に埋め込まれてしまっているから、回復するものではないからだ。
本を書いてまで必死に自分の考えを赤の他人に伝えようとした偉大な人々――作家たちと何らかの繋がりを持ちたいと思うからだ。
時間、空間、人種、身分を超えて偉大な人々に出会えることが読書の最大の意義ではなかろうか。
俺はその偉大さに出会いながら、どうやって俺もそんな人間になれるのだろうかと思う。
そう、ここまで書いてみてはじめて気がついたよ。
読書の本当の弊害ってのは、
細かく作りこむよりPDF貼っといてそれを更新しとくようにしましょうか、
って話になった訳だけど、
このサイトを最初に作った時、画面見ながら「ここ1mmほど右に寄せて」
とか言ってたじゃないかデザイナーさんよぉ。
この数年は随分やり難い事もあったけど、
よ、ハナキンって言っただけで昭和の遺物扱いされて悲哀を感じるナ
色々あってすっぽかされて暇んなったから、NISAの話しとくか。
でも、レッスンだの仕込みだのイベントだの金が相当かかる。
そこで、有志を募って金を出し合って、この子を売りだそうとする。
結果、すんげえ盛り上がってスターダムにのし上がり、相応の見返りがあったとする。
で、ここで言う可愛い子が「事業」で、カネの出し合いが「出資」で、
盛り上がりが「利益」で、カネ出した割合に応じた見返りが「配当」だ。
当然金を出してるってこたクチも出したくなるから、株主総会なんてのがあるワケだ。
これがすべてのキホンで、あとは実情に応じた応用になる。
ただ、株ってのは売り買いできる。
最初は、「事業」をヤルためにカネ出してくれた有志の集まりだったが、
ま、途中で抜けたくなるヤツも居るし、譲ってくれって言うなら売ってやらんこともない。
なんてので、株式取引ってのが生まれるな。
で、だ。
ヤフオクでも何でもそうなんだが、取引ってのは、上手くやると儲かるわけだ。
例えば、街頭で歌ってる少女のサインなんてのは、まあ入手は難しくないわけだ。
でも、代役からチャンスを掴んでスターの座を駆け上った超時空シンデレラになっちまうと、こりゃ相当の高値になるワケだ。
株式会社ってのは相当数があって、かなりの取引がなされてる。売り買いは結構頻繁にできる。
で、「この会社の株式は、もしかすると高値になるんじゃねぇの?」と思ったら、買っとけば良いわけだ。
不確実性に賭けて儲けようとする。
インフレターゲット2%とか聞くな。
まあ、インフレ2%ってのは、物価が2%上がる、と思っときゃイイ。
理由は色々だな。
会社ってのは借金して事業拡大してナンボだとか、カネが動きさえすりゃ失業者が減るとか、まあムツカシイ事はエライ人に任せときゃインだよ。
物価が上がりゃ、賃金も上がる。まあ過去実績は未来を予言しないが、統計局のデータみると過去はナントカなってた。
問題はだ。物価が上がると貯めてるカネの価値が下がるってこった。
具体的に行こう。
オマエが100万円貯金してたとするな。今日100円のモノは、1万個買える。
ただ、物価が2%上がると、102円になる。すると9803個しか買えねぇな。
いきなり200個近く買えるモノが減るわけだ。
40年間ずーっとインフレ2%が継続するとかこの20年物価がほとんど変わってねぇのにお花畑みたいな前提だが、
まあそういう前提に立つとだ、100円ショップは220円ショップになって、貯めてるカネは実質目減りする。
売ってる商品の中身が変わってなくても、カネの価値が下がるってのがインフレで、物価上昇ってこった。
過去、定期預金金利はインフレを常に上回っていたからナントカなってたが、まあ今後はどうだろうな。
「フラット35で限界まで借金して豪邸建ててんだろうな?固定金利の借金とかゼロにナンだろ?ん?」て返そうな!
事業に魅力を感じて出資して、見返りとして配当を貰うってのも株主のあり様だが、
安い時に出資して、周りが高くてもイイからその株売ってくれって言った時に売って差額で儲けるのも、またアリなワケだ。
さらに言えば、株式取引ってのは「価格変動するモノ」の取引でしかないから、別にその会社に思い入れがなくてもイイ。
腐らねぇし保管も要らねぇし取引相手も大量に居るからヤフオクで転売するより何倍も楽なわけだ。
バカみてぇに取引が多いから、借りてきて売った後で買い戻すみたいな、日常生活じゃ考えづらい転売の方法もある。
投資と投機とはみてぇな、イケメンが語れば素敵って言ってもらえてもオッサンが言ったらウザがられる話題に踏み込まなくても、
結局のところ、不確実に賭けて儲けようと思ってやる行為ってのは、基本的には全てがギャンブルだ。
ただ、ギャンブルってのも大損しない為に使うと、意外に便利だったりする。
例えば「俺は今年怪我をするゼ」という方に賭けるギャンブルってのは、結構みんなやってる。
毎月賭け金をベットして、勝てば(怪我すりゃ)払い戻しがあって、負ければ(怪我しなきゃ)親に持ってかれちまう。
親が保険会社のギャンブル、ま、普通の呼び名で「傷害保険」だな。
火事になる方に賭けるのが火災保険だし、癌になる方に賭けるのがガン保険だ。
モチロン、コンナのは負けた方が嬉しい訳だ。
稼いだお給金守るんだったら銀行に預けときゃ良さそうなもんだが、実はコレ目減りする。
まあ、昭和の頃みたいに普通預金でも3%とかついてりゃ別にエエがな。インフレ2%より大きいからな。
ただ、金利は自由化されたし、銀行にしか預け先がないってのは如何にも問題だ。
だもんで、「今貯めてるカネが、インフレに負けて実質目減りしないようにする」ギャンブルってのは、
まあ、欲に眩んだギャンブルよりは多少はマシなわけだ。
さてとNISAだ。
ISAってのはイギリスのIndividual Savings Account(個人貯蓄口座)の事で、これがお手本になってる。
(読んで字のごとく個人の貯蓄を奨励する口座だが、イギリスのはちっとメンドウだ。カツアイ)
ま、日本の場合は、非課税ってあたりがキモで、要は税金が取られねぇ。
日本はな、稼いだカネにゃ税金がかかるんだ。転売も例外じゃ無え。
だけどな、政府が「こんな風に自助努力してくんねーかなー」って部分にゃ、優遇してくれるコトが多い。
判りやすいところで言うとだ、財形貯蓄ってのは利息に税金がかかんねぇ。
まー雀の涙にもならん利率の昨今だと意味ないが、例えば金利3%の時代ならマァマァ意味があったんだよ。
簡単に言うとだ、年上限100万でギャンブルに慣れろって制度だ。
NISAちゃんみたいな絵を石川雅之が書きゃイイんだよ。醸せよ。
あとで政府のインボウガーみたいなのは邪推するけど、制度だけサラッと説明するとだ、
これだけだな。
ナンカ落とし穴とか気になるワードだが、要は口座の中だけが非課税で、外出しちゃイカンってこったな。
ま、アタリマエっちゃあアタリマエのハナシだ。そういう口座なんだから。
あ、2023年までの10年間だから通算1000万円ぶんーとか言ってるのは聞き流してイイ。
5年間非課税ってことはだ、6年目には非課税枠が消えるわけで、結局5つしか枠はストックできねえな。
ちっと判り難いか。具体的に行こうか。
2019年時点では、以下のようになるな。
んでだ、
ま、年始に5年間使えるNISA枠がもらえて、買えるのは最初の一年だけ、ってな感じで理解すりゃエエな。
2018年まで使える「2014年NISA枠」は既に配布開始されてる。来年になったら「2015年NISA枠」が配布される。
これが今んトコ、2023年まで配布されるってこったな。
要はだ、素人がいきなり2000万とか5000万とか握りしめて鉄火場にやってこられちゃ困るわけだ。
いや、イイんだよ?スッてもおとなしく社会を乱さずヒッソリ暮らしてくれりゃ。
そうはならんだろ。
だから、ガーターガード付きボーリングみたいな、上限100万のお試し賭博場で、ちっと経験積んでくれってコトなわけだ。
「退職金の3000万で、○○の株を買った!儲かったら海外旅行に行くつもりだ」
○○には好きな会社の名前を入れて良いが、こう言うのやられたら困るわけだ。
だが、銀行におんぶにだっことか、年金だの公的支援だのに期待されても困る。
だから、「儲けるためのギャンブル」じゃなくて「インフレに負けない資産防衛」してもらいたい。
ただ、痛みを伴わない教訓は身につかない。
だからまあ、年100万ぐらいの規模で痛い目みながら学んでもらうってのが、目論見になっとるわけだ。
http://www.gov-online.go.jp/useful/article/201306/3.html#anc04
いやあ、腐っても政府広報。
「投資はギャンブルではありません」とか書いてないトコロにシビれるネ。
安全にギャンブルを楽しむ方法を説明しているトコロが、実に誠実だな。
なんでもやってみなきゃ判んねぇとか言ってねぇで、良い年した大人ならある程度のことはやって見る前に判れよ。
つーかな、繰り返しになるがな、
「儲けよう、2倍にしよう3倍にしよう」ってのは、競馬競輪オートレースに競艇と全く変わらんわけだ。
でもな、オトウチャンが50万も100万も握りしめてボートレース行っちゃったら困るだろ。
「余裕資金で初めて、損しても授業料だと思いましょう」とか鵜呑みにスンなよ?
馬見るオッサンだって必死に予想して、当たると思って買ってんだ。
クドすぎるぐらいにゆっくりじっくり考えろナ
んで、イケると踏んでから買やイイのよ
ハッキリ言って譲渡益(売買益な)に税金かからんとか、どうかしてる優遇措置なんだよ。
コレで、株だのファンドだのを「調べて学んで資産運用を自分でやる基礎を身に付けろな」って制度なワケだな。
要は、これからインフレさせる予定だから自助努力でヒトツヨロシクってこった
ま、カネはカネだ。よく考えて張っていこう!
まったく本を読んでなかった人ならそれなりの効果はあるだろうが、
その名も「夏休み最終日ごっこ」。
やり方は簡単。
夏休み最終日だと思うこと。
「うわー!やばいー!宿題が終わらないー!もっと早くからやっておけばよかった。
どうしよう、どうしよう、どうしよう。
あー、もう悩んでても仕方ない。
とりあえず、手近なところから片づけよう」
と、
・(仮想の)後悔の念
・やり始めるきっかけ
が起こる。
やる気が起きないことに対して取り組むことができる。
私は自己肯定感が弱い。
小さな小さな子供の頃には無邪気にそんなことは気にせず生きていたはずで、いつからこうなったのかは定かではない。
しかしち○こが小さいとか、顔が脂ぎっているとか、手汗や脇汗が酷いとかといった身体的な後天的な悩みや学歴、自分でも自覚できる話の浅さ薄さつまらなさ、鳴らない電話が物語る交友関係、人としての器の小ささなどが、より弱くしているのは間違いない。
まずは自己肯定感が弱いとどういう症状で苦しむのかお話したい。
たまには考えたり思い出したりする、あの時はこうだった、ああだったと自分の過去を。考えるだけでつまらない。
つまらないどころか、そのうち後悔や恥ずかしさばかりになってしまう。
普通の人の「あの時は楽しかったな」が「あんなことしなければ良かった」に変換される感じだろうか、そもそも思い出すのが嫌なことばっかりなのかもしれない。
自己紹介から、ランチでの他愛もない会話で繰り出される「休みは何してた?」から、果ては業務の報告まで、自分にまつわるエトセトラを自分の口から語るのがとことん苦手である。面接での自己PRなんかは地獄である。
ただ苦手というだけではない、汗が出る。それも大量に。
心からつまらないと思っていることをさも価値が有る様に話さなければならない苦しみ、案の定つまらなかったというリアクションを頂いた時の苦しみ、四苦八苦に加えて欲しい苦行である。
その人が面白いとか面白くないとかいい人悪い人関係なしに、「俺が俺が話」とか「俺さんスゲー話」とか「俺さん可愛い話」とか「俺さんイケてる話」を聞くと、あまりの気持ち悪さにいらっとする。
まったくもってこちら側の一方的な都合で申し訳ないと思いつつも、決定的に辛い訳ではないその感情を抱えながら会話を継続するのは結構しんどい。
どうしてそんなに自分に自信が持てるのか、自分を肯定できるのか、自分の行いにうっとりできるのか、一度心ゆくまで問い詰めてみたい願望に心を奪われる。
成功回避欲求とか敗者の脚本と呼ばれているらしい。(http://2chcopipe.com/archives/51559636.html)
後から振り返ってみると潜在意識が悪い方悪い方へと導いている気がしてならない。
最初は失敗を喜ぶ悪魔が住み着いていると思ったがどうやらそうでもないらしい。
恐らく正しい選択の結果に得られる成功体験に耐えられない精神を守るために、潜在意識が制限を掛けているのだろう。云わば幸せの総量規制を忠実に守っているようである。
巷間では承認に対する議論が喧々諤々である。最近ではスラングの一つとして立派?に機能している。
かつては私も他者からの承認が欲しくて欲しくてたまらなかった。自己肯定感の弱さを他者からの承認で埋めたかったのだろう。
まだ若かった頃には今ほどインターネットも普及してなくてSNSなんかまだなかった時代、コミュニケーションと言えばガラケーによる通話やメールだった。
そして私もガラケーを持ったものの、着信音が鳴ることは滅多になかった。
当時のガラケーは通話とメールぐらいしか機能がなかったし、i-modeはパケット代が恐ろしく高い代物で、そのくせたいした情報は得られなかった。
プリインストールされているゲームもすぐに飽きてしまえば、結局残るのは通話とメールだったが、鳴りもしない物に良くお金を払っていたと思う。いつか鳴る日が来ると信じずにはいられなかったのだろう、本当に残念だ。
しかし承認を渇望していた思春期時代が、現代の始終繋がっていることが当たり前の時代と重ならなかったことには少し感謝している。本質的には変わらないだろうと思うけれど、情報伝達の早さと広さを考えると往時より受けるダメージは大きく余計に心を擦り減らしただろうと想像できるから。
今のところ昔に望んだような他者からの承認はまだ得られていないし、この先も得られることはないだろう。
それなりに折り合いをつけて、こんなもんだろうと思えるようになったし、今さら電話やメールがやたら鳴っても面倒でしょうがないし、捌けるスキルも無い。
誰しも若い頃に適量以上の酒を無理に飲んで酔い潰れた経験があるだろう。そんな経験をするうちに自分の適量が分かり、それ以上を欲しなくなる。
今頂けている、ほとんどゼロに近いような承認の量が私には適量なのだろう。それ以上を欲することもなければ鳴らない電話を見ても当たり前の風景に何も感じなくなった。
それでも他者からの承認が欲しくてたまらないならば「承認に足るほど努力できる何か」を見つけ努力することを考えた方がいい。
何もない人には誰も承認してくれないし、例え承認されたとしてもただ空虚なだけで、あなたが望む形の承認ではないだろう。
あなたが望む形の承認を得るには、承認を得たい相手と同じレベルになる必要がある。
努力が実り多くの人から承認されるようになった暁には、きっと求めていない承認に頭を悩ませることになるだろう。
しかしその悩みを乗り越えて、是非とも承認する側に回ってあげて欲しい。他者を承認する資格があるのは他者から承認を得ている人だけだから。
そして世界中の被承認の需要は供給を遥かに上回っているのだから。
この世は人の心を圧し折るには充分すぎるほど不平等で不条理で不合理で、持っている人は与えられてさらに豊かになり、持っていない人は持っている物まで取り上げられる仕組みになっている。
払い戻し可能な電子マネーを使えばいいだけな気がするんだが、それじゃ駄目なのか?
単純に金を持ってないからって言えよw