後で読もうと思ってタブを残しておいたらこれですよ。
http://kabux.hatenablog.com/entry/2013/12/03/090345
というかブログ自体が消えてる。
まったく簡単に消さないでほしいよなー。
「後記」(http://kabux.hatenablog.com/entry/2013/12/04/103731)のほうはgoogleさんのキャッシュに残ってた。
昨日のエントリに多くの反響をいただいた。少しだけ追記をしておこうと思う。
先生、その教え方では差別はなくなりません。 - 矛盾銀行株式会社
「差別はよくない」という原則を語るのには2パターンの方法がある。すこし理屈っぽいのだが、
- 「こういう扱いを受けて悲しい思いをしている人がいる」という事例をたくさん並べて、そこから「差別はよくない」という原則を見つける、帰納的な方法
- 「人間とは多様なものである」「多様性を認めないのは正義でない」という原理から出発して、「差別はよくない」を導く、演繹的な方法
今回エントリに綴った講義は前者のパターンである。世の中にはこういう差別の事例がある、関わることはもちろん知らないことも罪深いのだ。差別の事例を知らずして差別の何たるかはわからない、と。そしてこれはぼくの憶測だが「差別に関する知識の欠如は、差別を排斥しようという意識の欠如と一体だ」というのが講師の主張なのだろう。
さて、ぼくの抱えた単純な疑問は「前者のパターンを取った場合に、事例の列挙に終わりはあるのか」ということだ。極端な考え方だということを認識しつつ書くが、あれは差別だ、これは差別だと並べるその終わりはどこなのだろうか。およそ差別や偏見と呼ばれる行為によって、悲しい思いをしている人がいるのは事実だ。だた、そのすべての悲しみを掬い取るまで、ぼくたちは悲しみの一つ一つを学ぶのだろうか。
自分以外の人の悲しみに触れることは、他人に対するいたわりを育むうえで欠かすことはできない。他人に対して耳を傾け手を差し伸べる優しさと勇気を育てるだろう。(机上の学習も含めて)他人の悲しみに触れる体験は、間違いなく必要だ。
ただ、もっとシンプルに、「アナタとワタシは違っていて当たり前」ということを当たり前に受け入れよう、ということからスタートすることもできると思うのだ(先に挙げた、後者のパターン)。出自、病気、身体の欠損、性、宗教、あるいは慣習は多様なものだ、というプリンシパルを個々人の中に育てたらよい。その中の必要な局面で事例を挙げたらよいのではなかろうか。
そういうプリンシパルの上で、自分と違う個性を持つ目の前の誰かと相対すればよい。目の前のその人が困っていたり、悲しい思いをしているのであれば、手を差し伸べたらいいのだ。ぼくはそう思っている。
追記の追記。
元銀行員のブログという文脈で差別を話題にしたので、本筋とは違った趣旨でお読みになった方もいるかもしれないが、他意はない。
ちなみに、この同和教育は業務の一環だった(時間外手当がついた)。また本件以外にも、銀行業務として相対することがあるということで、実務的な人権教育-在日外国人のこと、反社会的勢力と人権のことなど-を受けたこともあった。
どっかに残ってないかな、元の文章。