目立つ事もなく、悪い事もしない、だが、個性もない無色透明人間と言うべきはないだろうか。
自分から前に出る事もなく、自分の意思、意見をハッキリと述べることもしない。
問題が起きれば、なるべく自分が手を出さなくて済むように、おおごとにならないように祈り、他の人の影に隠れるように、目立たぬように生きる。そんな感じでは無かろうか。
「出ない杭」とも言えよう。
グループで昼食を取るなら「あっ、僕もそれでいいです」。コーラとウーロン茶どちらを飲むか聞かれたら「どちらでも」。教師に提示された宿題を粛々とこなし、リーダーに提示された仕事を粛々とこなし、家族に言われた事を粛々とこなす。
創造がないのだ。想像がないのだ。渡された教科書とマニュアルが全てなのではないか。自分で「世界」という図書館に飛び込み、探し、悩み、仲間と議論し、何度も模索を繰り返し、書いては破りを繰り返しながらレポートを書き上げるのではなく、既に世にでまわっているレポートをつなぎ合わせて提出する。いや、つなぎ合わせるだけでも偉いのではないか。まるまるコピペして終わり。まるで単語の暗記テストをこなすだけのようなものではないか。
迎合でもない。迎合なら、進む道を自分が選ぶこと位はしているだろう。
ただただ、生まれた時に乗せられた船から降りる事をせず、その船の客人で居続けるだけ。船の行き先に意見をするでなく、行き先について尋ねる事もしない。舵取りや船の維持について積極的に関わろうと前に出ることもない。船でイベントがあれば顔をだすが、かといってイベントを積極的に楽しむ工夫をするわけでもない。ただただ、船に乗って船窓から風景を見続けるだけなのだろう。そして、ある日客室の中で死んでいるのを船員に発見されるのだろう。
人生という旅を、全行程三食付き&オプション無しのパックツアー客のように、添乗員の旗を目印にとぼとぼついて回るだけか。
平凡な人生は悪くない。だが、人生という道を、好奇心や探究心、情動や願いなどによって多彩なものにしていく努力をしないのではと思う。
人生においては、腹を割って話さなければならない時があり、往々にしてけんか腰になることもある。それすら避けてしまい、もやもやとしつつも「もめたくないのでそれでいい」と思っているのではないか。
真面目ではない。ただの、毒にも薬ににもならなぬ「のっぺらぼう」に過ぎぬ。「受け身君」とでもしておけば良いのではないか。
そもそも、「個性がないこと」が、どうしてそんなに悪いことなんだろうな? 日本はプレッシャーが多い社会だと批判する人は、「日本は人の個性を認めない社会だから、それを変えな...