2013-10-02

自分材料にクライエントを理解することの副産物

最近、力動的精神療法が専門の臨床心理士と話しをしたことについて覚え書き。

力動的精神療法では、クライエントの状態やパーソナリティなどなど(その他にもいっぱいあるでしょう)を把握するために「自分の心の動き」を使うようです。

例えば行動療法おいても、違和感を元に確認をすることはあるし、セラピスト感覚を使わないわけではないけれど、それらは行動療法という心理療法必要条件では決してない。そういった方向性をもった主義に根ざしてない。

力動的精神療法では、むしろそういったセラピスト内省必要条件であるようだし、それがツールとして位置付けられている。

(ここでの相違は、どちらが正しいとか間違っているとか、そういった問題ではない。根ざす主義が異なるわけなので、何を良しとするかという判断基準が違うわけです。)

それを聞いた時に、力動的精神療法もある意味良くできたシステムなのだなと思いました。結構パーソナリティ障害など、激しい行動にでるような人の対応をすることが多いようなんですが、恐怖や焦りを感じる、そこでの使うべき方法が「どう聞く」でも「応答する」でも「説明する」でもなく。

これはエクスポージャーする時の内言としては、うまく機能しているんじゃないだろうか?その状況での自分不安や身体変化をタクトしていく。ややマゾ的な志向といえばそうなんですが、辛い気持ちになることを良しとする雰囲気もあるので、不安を高めようとする感じなのかなと思います治療者にとってはよいエクスポージャーの機会に見えます

不安制御されなくなることの治療メリットは、行動の自由度高まるわけです。それによって、有効な手を打つ行動がとり「やすく」なる。その余地が増える。

ただし、ここで止まっていては、あくまで治療者への救いとしての機能であろうと思います。凶暴なクライエントがいても自分は落ち着いている状態を手に入れたって感じのね。

これ以降のセラピューティックな仕組みがあるかは

まだ不勉強ですが、

クライエントを理解するって目標で設定されている行動が、その人へエクスポージャーに使えるって、これをクライエントにしてあげたい都思えるほどの仕組みだとおもいました。

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