2013-07-15

二十歳を前にして、景気変動のように躁鬱を繰り返すようになった。

しばらく死んだように倒れていても、ひとの何倍ものパワーを出せる時期がくれば取り返せていた。

その波も小さくなってきて、大学卒業して大学院へと進学できた。

それでも、なにもできない期間はあった。

あったけれど、他の院生よりもずっと成果を収められた。

私の時間の流れと、環境時間の流れになんとか折り合いをつけられていた。

自分とは異質な時間への適応創造性を獲得させる。

しかし、「平日は毎日から晩まで」という時間の流れを要求される環境には適応できなかった。

自分とは異質な時間への適応不全は病変へと陥らせる。

症状は悪化する。創造性は失われる。

中途半端結構な成果を上げてしまっていることが、責任を生じさせる。

その責任の不履行が自分以外のひとにも及ぶのが厄介で、倒れていられない。

細々としたオペレーションレイヤー対応をどうするか、そんなことばかり気がかりで、気が休まらない。

うまく責任の及ぶ範囲をこれ以上広げずにクロージングして、この時間の流れとの交流を断ちたい。

職場環境への適応云々の話ではなく、時間の話なんだ。

それぞれの存在には最適な時間というものがある。

7年以上かけてやっと形成することができた、病気へと適応する時間の流し方を、すぐに変更できるほど事は易くない。

病者は治療のために適応を迫られた時間の流れがある。

その変更を迫ることは、すなわち、治療を中止することに繋がる。

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