2013-05-05

手を握って

初夏の日差しの中、右手相模湾の絶景を眺めつつ、国道134号線鎌倉に向かって歩いていた。

きっかけは知人宅に泊まった後、流れで裏手の高台伊勢公園に登ったことだった。湘南高校の奥、江ノ島と光輝く海を見て、近くに寄ればあの海のすべてを手中に一瞬でも収められるかもしれない。ちらっと浮かんだ妄想に惹かれて、背後の旧軍の慰霊碑に後押しされるように、別れた後で足は藤沢本町を通り過ぎ、自然江ノ島へ向かっていた。

国道467号線を歩き、歩き、歩き通した。携帯で位置を確認する迷いも、渋滞に捕まり別の道を探す煩わしさも必要ない。ただ道なりに歩けば着くのだから。時折、潮風が自転車とともに私を追いこしていく。汗ばんだシャツにしみが出ないよう、時折バッグを担ぎ直して歩みを進めた。

そして藤沢市街地を通り過ぎ、境川渡り、江の電が市中を走る交差点までやってきていた。ここを右に渡れば江ノ島なんだ。初めて止めた歩みに飛び込んできたのは、市街地ではない、行楽地としての江ノ島だった。

偶数法則が行楽地には存在する。偶数とは、右手左手が手を繋ぎ飽和する関係だ。男も女も若いのも年老いたのも手を繋ぎ関係性を演出するに相応しい数。

例えば、足を止めた線路の反対側に家族がいた。子どもを呼び止めて繋いだ母の左手は情愛に溢れていた。一方で母の右手は父の手と付かず離れずを繰り返す。まるで手と手が性愛してるのかと思うほどの仲睦まじさがそこにあって、気づいた私は立ちくらみを起こしたほどだった。

例えば、狭い歩道を譲り合う老夫婦がいた。顔は全く違うのに、雰囲気があまりにも似ているものから、同じ時間を長く過ごしたのだろうと何も聞かなくても分かるような、成熟した関係。対面から歩いてきた私に、嫁が最初に気づくと、お父さんと自然に彼の手を握ってすれ違えるようスペースを開けてくれた。ありがとうございます。お礼を言うと頭を下げるタイミングまで一致していた。

そうして、人と人との関係を知ってきた。笑ってる口元じゃない、本人も意識していない手元に現れた形から

ごみの中でたくさんの、握られた手と手を見てきた。手の持ち主が辿ったこれまでを想像しながら。

この時期としては若干涼しめの湘南の風は暑過ぎる仲を適度に冷ますために吹いていたに違いない。

江の電が、人が乗り過ぎて窒息死に至りそうな走りを見せていたので、鎌倉までさらに徒歩で帰った。手持ち無沙汰の両手からどうやったら力が抜けるのかわからない。ギクシャクと腕を振りながら、太陽に手のひらを翳してみる。友達なら誰でもいい。今だけは手を握っていたかった。

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