政治に参加する方法は2つだけ、投票するか政治家になるかしかない。
自分の一票で日本が変わらないと言うなら、政治家にでもなればいい。
秋葉原自体が、日本がマイナー文化を受け容れる国であることを象徴してると思う。そして重要なのは、今ある秋葉原の風土を作ったのは政治じゃなく、君みたいなファンダムの人たちが作ったってことだよね。それは、政治に頼らなくても生きる場所を作ることはできるってことだ。
もちろん性的マイノリティみたいに、そもそも自分たちの自由を縛る法律が存在するようなマイノリティは、政治的な主張をして戦わなきゃいけない。
オタクは違う。大声を上げなくても、自分たちの居場所を自分たちで作ってきた。でもその中で、政治的な意見も生まれてくる。公に認められなくても、特区みたいな形で自由に遊べる場所を残してほしいとも考える。棲み分けってのはそういうものだと思う。それを実現するための制度は、権利団体とは違うものだと俺は思うんだ。
現実的には、制度を変更するよりも、コミケみたいに自分たちで形を先に作って、社会に認めさせるのが近道だと思う。オタクの人ってそういうの得意だしね。"Fandom is a way of life"ってやつだと思う。ただ、そういうあり方がもっと示しやすい社会であればいいなとは、俺も思う。
オイル交換の頻度は人それぞれ考え方が違っていてこだわりもあるところだから、ディーラーとしても指定周期を押し付けにくい事情もあると思うよ。
メーカー指定だと1万5千キロ毎(車種による)でも、5千キロごとに交換しないと気がすまない人もいるし、オイル交換は車検ごとにしかせず日常的に油量を点検して注ぎ足すだけという猛者もいる。しかも人それぞれ年間走行距離も違うわけで。
だからクルマを買うときに自分から尋ねないとオイル交換時期の目安は教えてくれないし、オイル交換無料オプションがあるからといってディーラーも勝手には交換しない。客から怒られるから。
クルマを買うときに「オイル交換の時期とか消耗品取替えとかよくわかんない」と聞けば教えてくれるよ。
増田にお金があって長く乗りたいなら、ディーラー全部お任せにしとくと喜んでやってくれる。
いつオイル交換するか、それは増田が決めて都度ディーラーに指示すべきことだったんだよ。
・年間1万キロ程度乗る予定なので、12ヶ月点検ごとに無料オイル交換を使う
・ディーラーのオイル交換サービスは5千キロ×3回で使いきり、あとはカー用品店で交換する
・半年に1回交換したいので、オイル交換は近所のガソリンスタンドとディーラーで交互に
というか、そもそも論として、秋葉原という地区を考えた場合、すくなくとも、秋葉原以外でも生じている貧困問題以外の問題って秋葉原には無いんじゃないかと思う。
現状、幾つかの規制は存在して入るけど、それは必要な規制で、僕達の活動を活動できないレベルにまで封じ込めるものではない。じゅうぶん、片隅でひっそりやっていける。
ようするに、日本は十分幸せだ。ってことでいいのかなぁ?たまにそう思う。もう、何にもしなくていいんじゃないかって。
単純に、経済を活性化させてくれるだけで十分。という思いはある。
代替案もいまのところないし、とりあえず原発でいいんだけどね。
でもさ、福島でおきたことがいつ自分の土地で起きるかわからんと思うと、このままで全然問題ないじゃん、とも言えないよね。
とは言いながらこの30年何もなかったわけだし、福島は不幸な例外として、とりあえず再稼働させて、ってのでダメとは思わないよね。
さあ、どうしていこうかなーって感じだよね。
そんなわけで俺としたらおおまかに賛成だけど、少々疑問を残してる、って感じすな。
ちょっと古いけど同時期の象徴的な例を挙げてみる。
左派 http://www.toranoana.jp/mailorder/article/04/0010/16/63/040010166393.html
右派 http://www.jbook.co.jp/p/p.aspx/3058160/s/
前者を活字苦手だからといって手に取るかどうかは微妙だよなあ。
どういうわけか左派の人は読者と同じ目線で楽しみを共有するという意識を持つのが
かなり苦手な人が多いっぽい。
脱原発とまで強硬な姿勢の人間が多数だったとは思わないけど、原発の存在に不安を感じている国民は少なくなかったはず。
そうした不安が議席に反映されているように見えないのは、いくつか理由があると思う。
■脱原発論周辺の問題
・漠然とした不安に過ぎないものを「脱原発」として先鋭化させすぎてしまった。
・原発を緊急にすべて無くさなくてはならない必要性に十分な説得力を持たせられなかった。
・脱原発を押し出すあまり、国民の大多数が政治に期待するところの経済政策への言及が不十分となった。
■外的要因
・そもそも不利な状況にある政党が窮余の策として脱原発を標榜していた。
・現在の選挙制度自体が個別政策を選択するのに向かない制度になっている。
・政権交代の実質的な受け皿として最大の選択肢であった自民党が脱原発を提唱しなかった。
主な原因はこんなところじゃまいか。
中身のない理想論ばっか語られても、誰も信じちゃいないってことでしょ。
それに程度の差はあれ、原発は減らしていったほうがよいよね、かわりにどうするかは未定だけど、って雰囲気はどこもまったく一緒だったじゃない。
ネット社会、SNS社会になって、商品購入の「勝ち馬心理」が加速していると思う。
要は、「楽天の売れ筋ベスト10、アマゾンの売れ筋ベスト10に入った商品は、より加速して売れる」
「Google先生検索結果でベスト10以内のサイトは、より注目されるが、それ以下は閲覧されなくなる」
という現象。
これが、より社会のいろんな消費行動、あるいは政治行動に影響していると思う。
例えば、「国内旅行でどこに行くか?」
以前にも増して、人気観光地(東京、京都、北海道、沖縄)の寡占が強まり、
そうでない観光地(例:四国など)は「より厳しい戦いを強いられる」ことになりそう。
心理学的に、人間が選択肢として許容できる数は、せいぜい5~6つらしい。
「メニューの選択肢が5~6個のお店の方が、選択肢が20も30もある商店より、売行きはいい」らしい。
となると、旅行サイトとかで、「より消費者に旅行に出かけてもらう」には、
「国内の有力な旅行先候補地の中で、サイト運営サイドで、第一候補地を5~6つに絞っておくのがいい」となる。
こうなると、東京、関西、北海道、沖縄、九州で5つ。あとは東北とか信州が入って6~7つ。
中国地方とか四国地方は、「運営者側の予選に選ばれない」ので、余計に訪問者が減ることになる。
※勿論、四国とかの選択肢を、旅行会社側が「用意しない」のではない。
「用意はするが、目立たないところ、トップページじゃなく2頁目の掲載」になってしまう、ということ。
四国のガイドブックも書棚に並んでいて、それなりに手に取る人は多かったと思う。
書棚に「並んでいさえすれば」、気付いて手に取る⇒興味をもって出かける、という可能性はあった。
しかし、今では「トップページは東京京都北海道沖縄」しか存在せず、「四国は2頁目」なので、
「2頁目まで捜しに行く、アクティブ旅行者」だけしか、四国を旅行先候補にしなくなる。
そして、この傾向が、旅行先のみならず、「大学選び」「就職先選び」「住宅選び」
そして「投票先選び」にまで波及していっているのでは?
「ネット時代には、勝ち馬効果がより加速される」ということと、
「政党乱立のため、定番政党支持が加速した」ということがあるのでは?
スナック菓子とかでも、「新商品を試すより、定番商品を買う」傾向が加速しているそうだが、
同じことが、政党選びでも起こっていたのでは?
@ueno_wan
暗い4年間が始まる。脱原発派と護憲派、ジェンダー平等派にとって。教育現場にとってもだ。インフレ、借金、東アジアの緊張、貧困と格差、弱者切り捨て…亡国政権の始まりだ。
多分誤解されやすい部分として、君の主張は「秋葉原の人も、新宿二丁目の人も、在日の人も、マイノリティだから集合して政治的な力を持つべき」ってミスリードされる可能性があると思う。で、それはきっと反対されるし、ヘイトの対象になると思う。
君の主張の本意は今までの発言でよく分かる。棲み分け論を受け容れて、自分たちがマイノリティであることを自覚しつつ、他者の権利を侵害しない範囲で自分たちの権利を守るってこと。正しい主張だと思うし、よくものを考えてるとも思う。でも、それが強力な連帯関係になって、発言力を持つと、それに対抗しようとする言説も強くなる。
理想としては、マイノリティはマイノリティのままで声を上げて、それが届き、必要十分な規模で受け容れられることだと思う。受け容れられるかたちは、棲み分けかもしれないし、もう少し違うものになるかもしれない。でも君が求める権利は、権利団体を作って声高に主張しなくてはいけないようなものではない気がする。それよりも、こうしたマイノリティの声がねじ曲がらずにまっすぐに拾える制度を作る必要性を感じる。
俺の言葉も誤解されやすい部分があると思う。マイノリティであるがゆえに、オタクも性的マイノリティも在日外国人も、互いの立場を理解して譲歩し合えるはずってのは間違っていない。ただその共感が、拙速な同一化に向かうべきではないってことで、かなり微妙な問題だと思うんだ。
「お前オタクなら人種・国籍差別に反対する立場もわかるだろ?」は正しいけど、「お前オタクなら在日外国人の権利を守る主張に賛同すべきだろ?」は間違ってる。
投票率50%以下で、脱原発と言ってる連中が投票に行かないなんて考えにくいから、彼らにかなりのウェイトが掛かった選挙だったにも関わらずこれ。
その記事は既に削除しましたが、私はそこで、
「以前、無断転載批判クラスタを批判した時に、素性を特定され、怖くなってツイッターアカウントを消した」
「でも彼らの言動に納得がいかず、捨て垢を使用して批判を続けてきた」
という事を書きました。
そして今後は捨て垢を使わず、これからも彼らは間違っていると主張し続ける、
恐怖はまだ拭えないけど自分の判断を信じる、と書きました。
しかし、あの記事を投稿した後に、私は自分の間違いに気がつきました。
私はそう書きました。しかし、あることを思い出したのです。
最初のアカウントを捨てた時は、まさか彼らが私を「特定」するという方法で潰しに来るとは思ってもみなかったこと。
相手がどのような人間で、どのような手段を使って来るか、
想像も出来ないくせに私は彼らを批判し、結果そのように潰されたのだということ。
そして相手は同じなのだから、「絶対に大丈夫だ」なんて事はあり得ないことを。
そしてそれに気づいた瞬間、また私は自分が迂闊な事をした、と後悔しました。
私は、ひどく臆病で、あの時とても怖い思いをして、
もう二度と彼らにかかわるのは止そうと、その時確かにそう思ったのに、
それ以降も繰り返される彼らの言動をわざわざ自分から見に行って、やはりおかしい、許せない、
そんな気持ちを止める事が出来ず、愚かにも他のアカウントを作ってまで主張を止めませんでした。
もしも自分の身内にまで何かあったら、という最悪の想像までしたことを、
怒りにまかせ、「喉元過ぎれば熱さを忘れる」愚かしさで忘れてしまっていたのです。
それを思い出した私は今度こそ、もう本当に彼らにかかわるのは止そうと思いました。
弱いくせに性懲りも無く彼らを阻止しよう等と考えた私が馬鹿だったのです。今はそれを認めます。
只々私の弱さ、愚かしさが、あのような記事を書き、そして消し、撤回する、
というこのような無様な最後を迎える事になりました。本当に滑稽な、自爆です。