もし本当にホモやレズが「人類と言う種の存続を脅かす突然変異」なら、男役の男と男役の男、あるいは女役の女と女役の女が愛し合わなければならない。
が、それは出来ない。それは人間が、愛や性という概念に対して本能的に「男性と女性」という役割分担を決めているから。
つまり、ホモは男の内にある女性性(女性らしさ)を愛しているだけで女を愛していることに変わりは無いのだ。
男性の中に女性が、女性の中に男性が部分的に存在しているのは心理学的によく知られているし、ホモやレズといった嗜好が古の時代からあったことを考えれば
人間は人を愛するとき、あるいは誰かに対して愛情を感じるとき、本能的に見た目を通り越した内側、心だけを見ているということなんだろうと思う。
これは、見た目だけをより美しく、魅力的にする人間への批判的反応がなぜ支持されやすいのか(そして、それに対する反論はなぜ理性的になされることが多いのか)の答えでもある。
ちなみに、これらの考察から、バイセクシャルはホモなら攻める側、レズなら受ける側に多いという推論も導き出せる。なぜなら、ホモの攻める側は男性そのものだから、相手の見た目は男でも女でもどちらでもいい、レズの受ける側は女性そのものだから、相手は男であっても女であっても同じだからである。個人的な経験で言っても、ホモでバイを自称する人間は圧倒的にタチ(攻める側)に多い。
びっくりだよね~
こんなこと言い出す奴は空気読めないんだろうな~
まあ、そんな君達でも容姿差別は容認するんだよね~?え、しないの?
ああ、整形費用出せば矯正できるからってねwww自分の努力で解決できるってねwwwなるほどwww
受付嬢にデブでブスとかゴメンなんで、そういうやつらが矯正してくれるならありがたいっすわwwww
いや、ホントありえないよwww取引先のオフィスビル入って出迎えてきたのがドスの利いたデブでブスってねwww
腐るほど人材いんだろ~そんな奴にクビにしちまえよ!!(怒)ってねwwww
つうか血液型で分類ごときが差別ってどんだけ暇人なの君ら?ニート?あ、もしかしてニートなの?www
うっわやばくね?wwwマジキモイわwww
はてな匿名ダイアリーって思ったよりレベルが低いな~。
おれみたいな素人が書いた記事にブックマークが付きまくりってどうなのさ?
そんなカスを一人前に育て上げるのが腕の見せ所だろ?
聞いたことない単語だったんでググッてみたんだけど、ちょっと違くないか?
横だけど、比率というのものは、それ自体の意味ももちろんだけど、他社との比較において意味を持つもの。
というか、同業の中で比較する場合には、別に分母に営業利益をとろうが別に大してかわりがないだろうし、他業種だと多少の歪みが生じるだろう。が、傾向さえつかめれば問題がないものである。
で、問題なのは、電波使用料というものが、どう算出されるもので、それが異業種(携帯電話など)に対しても公平な算出基準であるか否か。
まあなんとなくおかしいような気はする。
そこそこまともな人生のスタートラインだった人は無駄を楽しむ余裕もあるんだろうなと思う。
子供のときに読書感想文というのがあって、あれが実にくだらないと、子供心に感じた。だから、絶対に本当のことなど書かなかった。いい加減に書いて、つまり、先生が喜ぶようなことを書けば褒められた。実際に、それで賞状をもらったこともある。ああ、くだらない思い出。
本を読んで、その感想を文章にすることは、自分の考えをまとめる、という訓練としては、そこそこの価値がある。気持ちというのは、なかなか他人に伝達できないものだから、その局所的なものを一般的にする行為は価値がある。しかし、そもそも、人に伝えたい、という気持ちがまず大切であって、「わかってもらいたい」という動機がなければ、文章はけっして良くはならない。その気持ちがない状態で書けば、ようするに入試の小論文に見られる、おきまりの構成、テーマ、常套句の嵐になって、読めるけれど、意味のない文になる。そういったものをいくら書いたところで、それは文章を書けることにはならない。
それよりは、この頃の流行のブログの方が、少しはましだと思う。誰ともわからない相手に(そんな者はいないかもしれないのに)、気持ちを伝えようと前向きになってアウトプットする素直さは、非常に平和的で、社会的で、そして善良である。
自慢したいことや、同情してほしいことや、知ってほしい気持ち、褒めてもらいたい行動、そういうものが誰にもあって、それをこれほど公的かつ私的に(つまり遠いけれど身近で)書けるシステムは今までなかっただろう。この際だから、読書感想文なんかやめて、ブログを学校の先生が読めば良いのではないか。
まず、小説(フィクション)の感想文というのは、小学生にやらせるやらせない以前に、そもそも馬鹿馬鹿しいものなので、これは、教育どうこうの問題ではない。もし、国語の時間に文章を書くことの訓練をさせるつもりならば、小説ではなく、絵画であるとか、古建築であるとか、まったく別分野の芸術に対する感想を文章にさせてはどうか。文章になっているものの感想を書かせると、単に8割はその内容をピックアップするだけで、創造力、文章力の訓練には適さない。出版社に勤めて、本のあらすじを書く仕事を将来するのならば、多少は役に立つだろうか。それ以外に、小説のあらすじを把握する意味も価値もまったくないと思われる。そもそも、本の裏表紙にある「あらすじ」が僕には無意味だ。
一方、ノンフィクションに対する感想文というのは、ある程度、論理的な思考を養う意味では、効果があるかもしれない。受験の小論文で試される学力もここに近い。つまり、求められているものは、論理性、着眼などである。
おそらく最初の目的は、子供に本を読ませること、だったと思われる。僕は、子供に本を読ませる必要は感じない。読みたいものがあれば、必ず自分から読むだろう。それが人間だ。
繰り返しになるが、文章を書くときに必要なことは、読む相手を想定すること。その人に伝わるように書く、という訓練が重要だ。読書感想文は、誰に宛てた文章なのだろうか? いったい何のために書くのだろうか?
横だけど、この人は経費の中に儲けが入っちゃってるって話をしてるんじゃない?
コデラノブログ4 : フジテレビの韓流ゴリ押しは事実か - ライブドアブログ
http://blog.livedoor.jp/nob_kodera/archives/3909024.html
伝聞でなく、数字をもとに記事を書きたいなら統計学の薄い本読んでから書け。
新書でも山ほど出てるだろ。