それからというものウェブデザインを学ぶために専門学校に通ったりして一年過ごしてきたが、
就職活動をやってはみたものの僕を採用してくれるところはなかった。
いくら就職活動をやっても難しそうなので今は人材を必要としている介護の仕事に従事するために
新たに専門学校に去年から通いだした。ウェブデザインの学校は自分で払ったが、今回は親の助けを借りた。
学校に入ったら入ったで女子が多くて別にうれしいわけではない。
モテないし、影でキモいと言われていたりするもんだから全然充実していない。
昔から僕はいじめられっこで中学時代でもそんな感じだったかな。
廊下をいつも歩くときは女性に何を言われるかわからないから下のほうを向きながらいつも歩いている。
たまにキモいって普通に言われてさらに僕の下を向く角度が鋭角になる。
バイトは介護関連のバイトをしていて、僕は普通の人よりも仕事ができないからあまりシフトを
入れてもらえないまま一月に一回くらいの頻度でバイトに通っている。雇ってくださっているだけ
ありがたいが、自分がどうしても仕事が出来ないことに対するコンプレックスによって
そこの現場に行くのが億劫になっていたりしてホントにどうしようもない。
力はないし、たとえばレクレーションの係りのときは何をすればいいか自分で考えて行動することができない。
このままでは悔しいのでせめて力だけは人並みの力があったほうがよいかと思い今日からキントレを
はじめたが、これも正直続くかどうかなんてわからない。
僕は一月に一回の割合でバイトに入っていてもうすぐ一年が経とうとしている。
その間に新しい人が来て僕よりも仕事が出来てしかも年下で頻繁にシフトを入れてもらえている様子を
見ると本当に悔しくてなけてくる。
この駄目駄目さを見るに漫画「ボーイズ・オン・ザ・ラン」の主人公 田西を思い浮かべたが、僕は彼の
足元にも及ばないくらい駄目駄目だと思う。 何かひとつのために努力しようとか、がむしゃらになろうとか
そういう覚悟みたいなものもない。
正直、このままでは何も変わらない。
田西のようにがむしゃらに何かできるものはないだろうか。
なるほど。
書かれていない事を確認も兼ねて書きます。
補足・訂正があればして下さい。
子供を育てる事への経済的負担が、以前と比べ大きく2、3人目の(もしくは1人でさえ)子供を生む事へのリスクが大きい。
当然、出生率は下がる。
彼は今をときめく民主党幹部E氏とは新人議員時代から親交を築き、
そのような彼なので、福島の惨状、特に福島の児童に差し迫った危機について、
政府部内(文部科学省)に再考を促すように進言したいのであるが、
彼自身、本当に「安全」だと信じ切っていて疑っていない。
「政府公式見解が絶対、マスコミは誤報だらけでいいかげん」という先入観が強い。
うっかり「今からでも20ミリシーベルトを再検討すべきだ」と進言すると、
長年の友情が瓦解しかねないので、どうしても彼に苦言を呈することが出来ない。
本当は自分の友情云々よりも福島の児童の安全を優先すべきなので、
その点では「卑怯者」という自分への批判は全くもって当然であり、返す言葉はない。
ただ、感じるのは、彼は結婚はしているが子供はいないし、今後も作るつもりもないという。
なので、幼児持ちの自分と、子無しの彼とでは、「原発への安全係数が違ってくる」、
これは致し方ないのかもしれない。
本当は子有りのキャリア官僚に知己があればいいのだが、そこまで親しい友人はいない。
先日もこんなことがあった。
原発について「煽るな」「そんなに危なくない」と報じている某週刊誌の記者と、
彼の紹介で飲む機会が出来た。
彼はその記者のことを事前にこう紹介していた。
「この記者は原発についてはド素人で、なのでゼロから原発を取材したから、
この雑誌社の記事は極めて客観的になっているんだ」、と。
しかし、自分は思うところがあったので、その記者に面会するやいなや、こう切り出した。
「貴社の原発報道スタンス、あれは他誌が反原発に走ると睨んで、あえて逆張りに走っている、
一種のポジショントークでしょ?」
そうするとその記者は悪びれずに「あはは・・・ばれちゃいましたか」とあっさり白状した。
そう記者が白状したときの、彼の苦虫を潰したような顔を忘れない。
雑誌社の「ポジショントーク」を見破れない見破れない官僚って、相当ナイーブ過ぎるんだが、
それとも「役所発表は絶対」という原理主義世界観が、認知的不協和(=見たくないものは見えないことにする)を
引き起こすのか?
・System.IO.Path.GetDirectoryName(path)
pathがディレクトリ(フォルダ)を示していても、1階層上のディレクトリパスを返してくる。
実存チェックは一切やらない。
すみませんが、そもそものテーマとして「少子高齢化」なんて、僕は考えてないんです。
テーマからズレる事は、元々考えたかった事を希薄にしてしまう。
だから、シングルマザーに関するトラバへのコメントは控えました。
「少子高齢化」に重大な問題があって、解決が非常に難しいことは
限界集落と呼ばれるような所で生まれ育って、
子供や若い働き手が少ない(いない)事が地域社会を維持出来なくさせてしまう事は、それなりに実体験として分かります。
また、財政難などの問題も当然大きな問題としてあるでしょう。
ただ、計画性のない出産を財政的に許容できな社会の方に問題がある、
と言うのは、社会に期待し過ぎ、甘え過ぎと感じたからまとめに書きました。
自営業を手伝うなどは、可能でも学校に行かずに働く、小学校が終わって働くと言うのは難しいと思う。
では、
(おそらく、社会保障や教育費、医療費などの経済的な支援の充実、保育所などの充実の事と思われる)
こういった社会は実現できれば良いとは思う。けれど、今はない。
だから
「デキ婚への寛容」
として、書いたので「少子高齢化」に関して考えを練っていませんでした。
あと、『〜でしょうが』『〜べき』なんて書き方されると、
先日事故のニュースで「癲癇」がよく解らなかったので調べてみたら、昔付き合っていた恋人がまさにそういう感じだった。
私はてっきり精神病だとばかり思ってたから、新事実をつきつけられた気分だ。
それに癲癇を患っている本人が、自分は統合失調症や人格障害だと言っていたので、余計にだ。
10年くらい前は動画なんてゼロに等しかったし、今ググれば恐ろしい事に発作の動画だって見られる。
http://www.youtube.com/watch?v=ts0Re8eJmIY
もし昔の私が今みたいに情報を得られていたら、違う現在になっていたかもしれないと思うとなんとも複雑だ。
だが、動画の子どものように声をあげて痙攣しうつろな目で口から泡を吹く成人を目の前にして、ショックより先に「調べる」という行為をできていたか?と言われれば自信がない。
今、元恋人とは直接の関わりはないが、共通の友人が多くTwitterでもフォロワーのフォロワーくらいの距離だ。
お互いの近況を知ろうとすれば簡単に知ることができる。
どうやら今は家庭を持って子どもがいるようだ。幸せそうでなによりだ、と思いたいのだが、時々子どもに対して申し訳ない気持ちを綴っているのを見ると不安になってしまう。(お節介かもしれないが)
私は今、恋人と呼べる人がいない。
好意を寄せてくれる人がいても、意識していないところで「この人は大丈夫か?」と相手を疑っている気がする。癲癇患者の中には薬を極端に嫌う人もいて、人前では絶対に飲まないからその辺では判断できない。
親しくなってきたあたりで、人が変わったようになったらどうしようか等と考えてしまう。
もしかしたら元恋人は心身症や精神病を併発してたのかもしれない。
こういう病気や持病は本人が自覚をもって管理をしていくしかないんだろうな、と思う。
ちゃんと管理できてる人が、一部の無自覚で無責任な癲癇患者のせいで嫌な思いをしてるんじゃないか?
自分と自分に関わる人に要らぬ不幸や迷惑をかけないためにも、本当に意識して欲しいことだと思う。
------------------------------------------------------------
書かれている内容については、私が特定されないように少しいじってあります。
誇張はないように気をつけてあるけど自信ない。
まあ、WTCに旅客機を突っ込ませた時は彼と彼の取り巻き達が「アメリカに死を!」みたいな事狂喜乱舞して叫んでたから、お互い様としか。
疲れた
はっきりいって疲れた
俺としては頑張っているつもりだけど、来年がもっと大変になると思うと俺のあのときの判断はなんだったんだろうかと思ってしまう
敬意は持っているしなめているつもりもないのだが、これ以上気を張るというのはもう厳しい
規律をまもって行動しなければならないのなら俺は場を和ませようという言動は全て廃止しなければならない
4年間俺は尽くしてきたと思うのもあって行動が軽はずみであったしそれは愚かなことだった
今後は、事務的な行動しかしない
もうはしゃぐのはやめておこう
福島児童問題で、文部科学省や教育委員会、PTAや放射線医療関係者が
ケンケンガクガク議論をしているが、肝心の主体が議論に加わっていない。
ずばり、児童そのものはどう感じているのか?
今回の件で一番ストレスを感じているのは、誰あろう児童自身である。
低学年ならまだしも、高学年になれば、なんとなく
「自分達の健康について、経済性等と天秤を掛けた議論が展開されている」
ということに気付くはずである。
ネットリテラシーが高い児童であれば、「20ミリシーベルトは危険」というサイトを自力で見つけ、
その際、教師は「安全だから安心してね」という政府公式見解しか話することができない。
となると、児童は「先生の言うことだから、安全なんだ」と正直に信じるだろうか?
恐らく、過半数の児童は、「先生のいうことはタテマエで、実は危険なんだけど言えないんだなあ」という
「大人の事情」を察することになる。
そのまま「大人の事情」を察したマセガキになって事が収まるか、
それとも「大人なんてウソツキだ、先生もウソツキだ」として反抗児童になるか、
いずれにしても「教師への全幅の信頼性が瓦解する」ことになる。
あるいは親はどう話すか?
この場合、政府見解どおり「安全だから安心して」と話す親もあれば、
「実は危険だけど、家の事情で避難できなくて・・・」と話す親もいるだろう。
で、「安心して」と話した家の子供と「実は・・・」と話した家の子供同士で情報交換して、
見解の相違がわかって更にひと悶着が発生する。
小学校高学年だと兎も角、中学生ならそのまま非行まっしぐらになりそうだ。
ということで、あまり議論されていないのだが、
思っていた事が、正しく伝えられなくて申し訳ない。
って事は、出産計画ってのは社会のシステムが簡単に制御できない or すべきモノではないと考えて良い?
そうだとするなら、(出生率を維持するという話しは別にして)出産は当人達が
『考えて』行わなければならない。
それは野生動物でも知ってるって話し。
計画性のない出産の方が、異常とは言わないが、問題があると思う。
というのが、シングルマザーやシングルファザーを卑下するつもりは、全くない事は分かってもらいたい。
20ミリシーベルト問題だが、実は放射線医学専門家は引き下げを主張したが、
文部科学省側が20ミリシーベルト維持を押し切った、という未確認情報がある。
真相は未確認だが、私見では「さもありなん」という気がする。
より深刻なんじゃないか、と思う。
「自分たちが気付きあげた教育メソッドこそ最高」と固執して方針転換が遅れたり、
他学会から「教育界の常識を否定」された際にも直視しなかったりする。
例えば「教室の天井高は高ければ高いほうがいい」と教育界では信じられてきて、
文部官僚は地方自治体から申請あった「天井高の規制緩和」をかたくなに拒否してきたが、
しぶしぶ埼玉県で認めたところ、「かえって天井高が低くした方が、児童は心理的に落ち着く」という
あるいは「教育効果を上げるには少人数教室が最善」と教育関係者(文部官僚も日教組も)は主張し続けているが、
経済学者から「少人数教室にすると、トップ層が切磋琢磨しなくなり、かえって全体の平均学力は落ちる」と
今回の件についても、文部官僚は「屋外での体育活動が重要」とか
「子を疎開させて親と別離することは精神的に問題」という「もっともらしい理由」で
「できるのであれば20ミリシーベルトを貫いて、中通りで極力平常どおりの教育をしたい」という思惑を貫こうとしている。
彼らは「体育活動が重要」「親子のコミュニケーションが重要」という「従来からの教育メソッドの固執」という発想しかできない。
緊急時には、それこそ体育授業の1年間停止とか学童疎開という非常手段も求められるのに、
そういう「従来の延長線上からかけ離れた措置」を文部官僚は非常に嫌がる。
前例踏襲主義、という点では、文部科学省、もっと言えば旧文部省こそ、「官僚の中の官僚」である。
福島の児童の不幸は、官僚の中の官僚に学校運営権を牛耳られたことである。