2011-04-11

一か月

3月11日

都内にある会社の、自分の席に座っていた。

 

自分就職するまで宮城の沿岸部に住んでいた。

宮城県沖地震は、近いうちに必ず来ると言われ続けていた。

携帯はつながらない。

  

つけっぱなしになった会社テレビからは、悲惨な状況が映し出され始めた。

地面にパラパラゴミが散らばっているのかと思えば、

それらはすべて貨物用のコンテナだった。

燃えながら流されていくものは、段ボールはなく家屋だった。

映画たいだな」と、誰かが言った。

 

見たこともないようなすさまじい映像は、まさに映画のようだったが、

その舞台となっていたのは、自分にとって見覚えのある土地ばかりだった。

 

台風で午後の授業が中止になった教室のように、

非常事態はどこかワクワクするような、高揚感をもたらすのかもしれない。

集団下校のように外に列をなし歩いて行く大人たち。

家族、あるいは恋人に会うため、帰宅していく人が羨ましかった。

悪意を込めた言い方をすれば、このときはだれもがこの世紀末のような「映画」の、ヒーローヒロインになることができたのだと思う。

 

それは自分も含め、東京にいる人々にとってはこの災害対岸の火事からである

ただ自分の温度がみんなと少し違っているのは、その対岸に家族がいるためだ。

 

ちびまる子ちゃん』で、クラスメートの永沢君の家が火事になるストーリーがある。

みんなが励ましの言葉をかける中、永沢君は最後にこう言う。

「みんなはいいよな、家が火事にならなかったんだから

同じ言葉が頭に浮かんだ。

みんなはいいよな、家族地震津波に遭わなかったんだから。と。

 

だが、その後の被害を見れば「東京も被災した」のは確かである

ただしこのとき自分東京で「被災した」などとは全く感じていなかった。

原発停電液状化震災による事故プラスしてもなお、

その当事者以外、東京など向こうに比べればたいした被害ではないじゃないかと思っていたのだ。

 

夜が更けるにつれ、あきらめの気持ちを持つようになった。

いざという時に、心が折れてしまわないように、である

 

最悪、家族津波に飲まれてしまっていたとしても、

自分は幸い「対岸」にいるのだ。

  

インターネットは、twitterタイムラインがすごい勢いで流れていた。

twitter、あるいはSNSを通じて家族の安否、地域の状況を知ったという人が多いようだった。

でもそれは、インターネット回線電話回線が通じている地域での話だと思った。

実際、宮城の友人のアップデートは一切なかった

 

第一、60を過ぎた田舎の父や母、ましてや90近い祖母が、ツイッターなど知る由もない。

やっていたとして、今彼らが決死のつぶやきができるとは思えない。

こんな時にモバイル端末を握りしめて逃げ、

限られた充電で、奇跡的に電波がつながり、ツイッターメッセージが寄せられると気付き、

さらには「ここにいます、助けてください」と書き込むことなど不可能だと思った。

twitterを通じて家族の安否が確認できました!」というような

ツィートが次々と流れていくのを見たときには、

だんだんtwitterが疎ましく思えてきて、モニターを眺めるのをやめた。

 

24時を過ぎたころ「仙台市荒浜に2~300人の遺体」というニュースを見た。

荒浜は、学生時代によく行った。友達を連れ立って、海を見に行った。

海と海岸があるだけのとても広いところだった。

あの場所のすべてを奪うほど、津波は大きかったということだ。

ああ、もうだめかなと思った。

 

その時、電話が鳴った。

からだった。

何度もかけて、ようやくつながった、とのことだった。

生きていたのだ。

 

それだけで十分だった。

うれしかったし、ほっとした

それなのに、なんだか悪い気がした

 

 

今日4月11日

 

あれから一か月が過ぎる。

いろんな事があった。

 

たくさんの人に助けられ、疎遠になっていた地元の人との関係が復活した

一方で、普段ならなんとも思わない「東京の人」の言葉に、必要以上に怒り、傷つける言葉で返した

温度差がどうしても許せなくて、自分からたくさんの絆を壊した

 

今になって思えば、自分が悪かった。温度差があるのは当然だし、仕方ない。

自分のことしか考えてなかった。

 

今はもう「みんなはいいよな、地震津波に遭わなかったんだから」とは思わない。

ましてや自分は、家族が生きていたのだ。自分の不幸自慢などとるに足らない。

家族、家、仕事、すべて失った人たちからすれば、自分は十分「おまえはいいよな」と思われる立場でもあるのだ。

 

東京は、日常が戻りつつある。

当然のことだし、歓迎すべきことだ。

自粛なんてしなくていい。それが日本のためだし、被災地のためにもなる。

なのに、自分はそんな温度にどうしてもついていけなくなる時がある。

 

一か月経った今も、あの時の気持ちが、簡単によみがえってしまう時があるのだ。

たとえば仕事の合間に、友人や親戚の遺体が見つかったと知らされる。

遺体の損傷がひどいため、葬式家族だけで行う、などと聞いて、また仕事に戻る。

 

そのたびに「自分と周り」の温度差を、どうしようもなく感じる。

 

そして「被災地自分」にできてしまった温度差を、本当に申し訳なく思う。

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