サイコロって一口に言うけどさぁ、サイコロにだって色々種類はあるんだよ
話は聞かせてもらった!
サイコロで5の目が出る確率が本気でわからない、確率の概念が存在しない・・・?
サイコロの出目なんて1000回程度試行すればそれぞれの出目が満遍なくでることはわかるはず!
その理由は、彼はサイコロの出目を狙った目にできるからだったんだよ!
つまり彼はギャンブラーに向いてる
iPhoneを握ってそろそろ1週間が経つ。
今までぼろぼろのガラケーを使ってきた身としては便利さに驚かされてばかりだ。
未だにiTunesカードを買っていないので無料アプリしか使えないのがもどかしい。
でもいろいろ試しているうちに無料アプリだけでも戦えるような気がしてきたり。
そんなわけで色々試行錯誤しながらiPhoneで
原稿の下書きとか、
日記とか、
・Meemo
・Jotnot Lite
・瞬間日記
まずおなじみEvernote。
ちょっとしたメモから日記まで基本的に全部の情報はここに集約させてます。
たくさんのアプリを前述したけど、正直これだけあれば私は満足かも。
ただ無料会員ゆえオフライン環境にいるときに閲覧編集ができない。
これは痛い。私の身近にはソフトバンクの電波が入らない場所も少なくないのだ。
そんなオフライン環境にいるときはMeemoを使って文章を書いている。
Evernoteのノートブックに準拠したカテゴリーを作るとわかりやすい。
直接Evernoteにアップできるようなアプリがあるともっと便利なんだけどなあ。
有料アプリならありそうなのでiTunesカードを買ったらまた探してみよう。
画像でメモを取りたい時にはJotnotLite。iPhoneカメラでスキャンができる。
これもメール送信ができるのでEvernoteに送信して簡単に画像メモが取れる。
有料版は確か直接アップロードできたはず。
という問題がわからない。
今まで多くの生徒を見てきたが、
他に論理的思考に数々の問題をかかえている。
そんな彼に私は「やればデキる」的なことをいって焚き付けている。
それを信じ彼は宿題をこなす。
ちゃんとやれば全くデキないということはない(ヒドイ池沼でない限り)。
だが、彼は知能に欠陥がある気がしてならない。
バイトとはいえ教師として生徒を信じられないのはよくないことだ、
とわかっていても…
彼を勉強の方向に焚き付けるのは、
彼に人生を浪費させているようであまりいい気がしない。
でも、だからと言って私にはどうすればいいかわからないのだが。
彼の両親も期待してるし…
なんとなく消してない。年毎にフォルダをかえてる。
去年は減ってた。というか一昨年が多すぎるのか。プロバイダの対策が効いてるのだろうか。それとも最近露出してないからだろうか。
今年はまだ2,000いってない。さらに減りそうだ。
ところで、昔のメール見ると懐かしくて枕に顔を埋めたくなるね。
ん?「就職できる」なんて書いたっけ?
別にリクルートが主導しなくとも単純労働はそこまで人いらないし、知的労働は高卒か大卒かって言ったら大卒の方がいいんだからほっといたってそうなるよ。
http://anond.hatelabo.jp/20110211172056
(私)「すみません。自分は手が離せない状態なんです。それは今すぐに自分に聞かないと解決しないんですか?自分がやっているこの作業よりも大事なことなんですか?」
相手の状況を察するとか、相手の都合を考えるということが出来ない。自分の都合のみを押しつけてくる。だから、こういう場合は終わりそうな時間プラス1時間くらい先を指定して「何月何日何時何分に、○○の話をします」と言い渡して、とっとと自分の仕事に戻ってしまえばいい。見通しが立つから相手も待てるはずだ。
冷たくあしらう、なんて真似をするから拗ねる。「○○時間後に相手をする」という言い方をすればいい。相手は記憶力が良く、決まったスケジュールは忘れないから、その時間になれば、夜中だろうが電話してくるので、何日か先の昼間などにしたほうがいいだろう。
以上、「光とともに…」というマンガから学んだことだけど、本人は病気なのだから本人が変わることは出来ないとはっきりしているわけで、周りが対処法を覚えていくしかないよ。
でも、実は「アスペルガー」とは限らない。「周りの状況を考えず自分の思う通りに動く」というのは、いろいろな精神疾患が考えられるし、若年性認知症の症状かも知れない。素人判断はケガの元だよ。上司に掛け合って「職場の環境のため健康診断の一環として、彼に精神科で脳ドッグを受けさせることは出来ませんか?」と言ってみたらどうかな。自分が辞めるよりは賢明だと思うけど。
大人は好き勝手なことを言う。いつもそうだ。
「最近の若者は」
いつからか知らないけれど、今の大人たちもきっとそう言われてきたはずだ。
だから考えなおして欲しい。あなたたちが若かったころ、周りの大人に何かを強要されて不愉快だったことはないだろうか。
若者が求めているのは強制じゃない。援助だ。
火のおこし方、ナイフの使い方を教えるべき?
違う。大人にできるのは、それがいかに必要か、何故必要か、説くことだけだ。
それを必要とし、求めている者だけに教えればいいじゃないか。
教えるべきというのは大人の傲慢さに他ならない。
知らないよりは知っていた方がいいだろう。
けれどそれを知るために誰がコストを払うのか。
他ならない若者自身だ。
大人たちは言う。
「少年犯罪は増加している」
誰も信用できないじゃないか。
東京大学ご入学、おめでとう。
これからは残された青春時代を謳歌しながら、自分のやりたい勉強にむかって突き進んでいくことができます。勉強したいことがない人も、友達と酒を飲めばそのうち見つかるので気にせずにキャンパスライフをエンジョイしよう。
それぞれの興味関心が違うので、絶対に受けるべき授業ってのはホントはないと思う。
どういう授業に感動するか、好奇心をくすぐられるかはひとによってまちまちだろうから。
それでも、大学人になるにあたって、大学の空気に慣れることも必要なように感じる。
その点で僕は、総合科目Aの「科学史」、小松美彦教官の講義をおすすめする。
東大の先生ではないのだけれど、毎年夏学期に行われているから、彼の定年まで続くのだと思われる。この授業にぜひ潜ってほしい理由は、次の3点である。
まず、この授業は「科学史」ではない。まごうことなき「生命倫理」の講義である。
彼の専門領域である「臓器移植」の問題をてがかりに、「死」についての見識を深めていく。
『高校教師』という昔のテレビドラマを見せられ、最後に愛の逃避行をしたふたりは「死んで」いるのかどうかを問う。
「帝銀事件」という日本を騒がせた事件を取り上げ、人体実験のありかたを問う。
最後の授業では『あしたのジョー』がどういうマンガかを語り、1時間以上延長する。
それらはすべて「生命」というタームで結びついているのだが、高校まで単調な座学を受けてきた人間には意味不明に感じると思う。
そしてこれらは、基本的に教官の意図を強要される。教官の意図と異なることを言えば、なぜかキレられる。寝てたらチョークを投げられる。なんとも理不尽な授業である。
しかしそうした教官の高圧的な態度に、反逆できる機会が与えられている。
教官ははじめにこう言うのである。「テストは『授業受けた人用』と『授業受けなかった人用』の2種類を用意する」と。
つまり授業に一切出なくても、初回とテストさえ行けば、単位は取得できるのである。ここに、大学という組織がどういうものなのかが凝縮されているように感じる。授業はすべて、「教官のターン」なのである。「教官のターン」を不快に思うなら、授業に出なくてよいとあらかじめ公言しているのである。
その代わり、「受講者のターン」である「期末テスト」には出席を求められる。「受講者」は、授業や教官の著書に対して、反論を記すことが認められる。見事教官をうならせたら「優」、とりあえず書いたら「可」である。明瞭である。
テストは、教官と受講者の勝負なのだ。教官が下す「優」は、「お前の解答には納得させられた」という白旗とほぼ同義なのである。
授業に出なくてもよいという教官のスタンスは、彼が全共闘世代であることにも関わっているように感じる。いまや大学教官の下す「優」「良」「可」「不可」に振り回される学生が、支配に対し反逆した時期が45年ほど前にあったのである。彼の授業は、その時代を追体験させてくれるようでもある。
大学に反逆したものの多くは、今や予備校に流れている者が多い。小松教官が、東京大学出身であるのに東京海洋大学教授であるという肩書にも、何かあるのではないかと勘繰ってしまう。
大学というところは、授業だけ考えたらぬるいものである。だから「意識の高い学生」は、やれ学生団体だの、サークルだのバイトだのに力を入れ、大学という組織の無力さを呪う。
しかしそうではない。大学の授業(講義)ひとつ取ってみても、議論を活性化させるタネが転がっているのだ。ゼミのアットホーム(優しい・厳しいを備えた)な雰囲気も大学の醍醐味であるが、マス授業の緊張感も味わってもらえればと思う。
そうだ、それでいい。
東京大学ご入学、おめでとう。
これからは残された青春時代を謳歌しながら、自分のやりたい勉強にむかって突き進んでいくことができます。勉強したいことがない人も、友達と酒を飲めばそのうち見つかるので気にせずにキャンパスライフをエンジョイしよう。
それぞれの興味関心が違うので、絶対に受けるべき授業ってのはホントはないと思う。
どういう授業に感動するか、好奇心をくすぐられるかはひとによってまちまちだろうから。
それでも、大学人になるにあたって、大学の空気に慣れなけれないけないように感じる。
その点で僕は、総合科目Aの「科学史」、小松美彦教官の講義をおすすめする。
東大の先生ではないのだけれど、毎年夏学期に行われているから、彼の定年まで続くのだと思われる。この授業にぜひ潜ってほしい理由は、次の3点である。
まず、この授業は「科学史」ではない。まごうことなき「生命倫理」の講義である。
彼の専門領域である「臓器移植」の問題をてがかりに、「死」についての見識を深めていく。
『高校教師』という昔のテレビドラマを見せられ、最後に愛の逃避行をしたふたりは「死んで」いるのかどうかを問う。
「帝銀事件」という日本を騒がせた事件を取り上げ、人体実験のありかたを問う。
最後の授業では『あしたのジョー』がどういうマンガかを語り、1時間以上延長する。
それらはすべて「生命」というタームで結びついているのだが、高校まで単調な座学を受けてきた人間には意味不明に感じると思う。
そしてこれらは、基本的に教官の意図を強要される。教官の意図と異なることを言えば、なぜかキレられる。寝てたらチョークを投げられる。なんとも理不尽な授業である。
しかしそうした教官の高圧的な態度に、反逆できる機会が与えられている。
教官ははじめにこう言うのである。「テストは『授業受けた人用』と『授業受けなった人用』の2種類を用意する」と。
つまり授業に一切出なくても、初回とテストさえ行けば、単位は取得できるのである。ここに、大学という組織がどういうものなのかが凝縮されているように感じる。授業はすべて、「教官のターン」なのである。「教官のターン」を不快に思うなら、授業に出なくてよいとあらかじめ公言しているのである。
その代わり、「受講者のターン」である「期末テスト」には出席を求められる。「受講者」は、授業や教官の著書に対して、反論を記すことが認められる。見事教官をうならせたら「優」、とりあえず書いたら「可」である。明瞭である。
テストは、教官と受講者の勝負なのだ。教官が下す「優」は、「お前の解答には納得させられた」という白旗とほぼ同義なのである。
授業に出なくてもよいという教官のスタンスは、彼が全共闘世代であることにも関わっているように感じる。いまや大学教官の下す「優」「良」「可」「不可」に振り回される学生が、支配に対し反逆した時期が45年ほど前にあったのである。彼の授業は、その時代を追体験させてくれるようでもある。
大学に反逆したものの多くは、今や予備校に流れている者が多い。小松教官が、東京大学出身であるのに東京海洋大学教授であるという肩書にも、何かあるのではないかと勘繰ってしまう。
大学というところは、授業だけ考えたらぬるいものである。だから「意識の高い学生」は、やれ学生団体だの、サークルだのバイトだのに力を入れ、大学という組織の無力さを呪う。
しかしそうではない。大学の授業(講義)ひとつ取ってみても、議論を活性化させるタネが転がっているのだ。ゼミのアットホーム(優しい・厳しいを備えた)な雰囲気も大学の醍醐味であるが、マス授業の緊張感も味わってもらえればと思う。