私とは確かに自分と他人を区別する。
しかし、「ちょうど今ここにいる存在」だけが、私である、というわけじゃない。
もし自分がもう一人いたら、なんて考えなくとも、
もし私が双子で産まれてきていたら、
という現実にありえそうな想像をすれば、そこで出てくるのは間違いなく「もう一人の私」であり、その人生は今そこにいる「私」とは異なるもの。
先にも書いたように自分と他人を区別するから、その「もう一人の私」は「あなた」と呼びかけることもできる。
しかし、その「あなた」は今ここにいる「私」の人生のどこかで分岐したものであり、それらは間違いなく「「もう一人の」私」だ。
ゆえに今この瞬間に私が何人いるかということは争点にならない。いようがいまいが問題にもならない。どこにいようとも。
しかし、端から存在しない、私はひとりだ、と主張し、かつそれが正しいのであれば、あなたの存在はたちどころに特定され、逃げることかなわずに喰らわれてしまうだろう。
例えば、ある事象Aに対して命名しようとするとき、 その命名は事象Aが存在しないとできない!これはカタチから入るのではなくナカミから入っている! いやいやいや、その事象...
ばかだなぁ。事象Aなんて存在しなくても、命名くらい簡単だよ。 今、私は日本にいるが、今ちょうどブラジルにいる私を、もう一人の私と命名しよう。 果たして、もう一人の私は存在...
うーん? 今、私は日本にいるが、今ちょうどブラジルにいる私を、もう一人の私と命名しよう。 果たして、もう一人の私は存在するだろうか?いないだろうね。 今、あなたが日本...
私が自分以外にいても、それは私じゃないと思う。 もしかしたらあなたは分裂できるかもしれないし、世界に10人くらいいるかもしれないけど、私は1人しかいない。 ちょうど今、ちょう...
私とは確かに自分と他人を区別する。 しかし、「ちょうど今ここにいる存在」だけが、私である、というわけではない。 もし自分がもう一人いたら、なんて考えなくとも、 もしあの...
そんな人は、存在しない。