2010-05-23

http://anond.hatelabo.jp/20100523193710

1:読者の想像力をかきたてる

ライトノベル世代の悪癖は、漫画アニメ脳である事だ。

小説とは名ばかりの、台本紛いの台詞の応酬と

ト書きのような説明文。

漫画アニメのように、目で見、耳で聞く動く絵を、

そのまま文章にする事に注力する事は小説目的ではない。

勿論、読者が雲をつかむような場面ばかりではダメだ。(演出上の理由でなければ)

舞台演劇台本ではないのだ。

状況を全てお膳立てして、台詞を並べたてるのではなく

必要最低限の状況説明を徐々に積み上げていけばよい。

積み上げる事で、読者は想像力を膨らませ、

豊かな人であれば漫画アニメ以上の物を作り上げる事が出来るだろう。

時に読者を立ち止まらせ、ページを戻させるのも手法として悪くはない。

無駄で過剰な記述よりも、ずっと効果的でさえある

2:神である事を名乗ってはいけない

書き手は、物語の顛末を知っている。

登場人物の思惑、見る物を全て知っている。

だが、読者はそうではない。

今まで表現してきた文章以上の事は知らないし、文章に書かれた事だけが真となる。

また、一人称(もしくは二人称)で進める場合は、他の登場人物の思惑や見聞きした物を主人公は全て知らないはずだ。

三人称場合は余計に、神の目や耳を駆使しすぎると1の過ちを犯す事となる。

書き手は、読者、そして登場人物の目や耳を意識し、

彼らがその時点で知っている事、知らない事、あるいは隠し、誤解しているであろう事を

詳細に把握しつつ、それを彼らに悟られてはいけない。

3:小説ルールブックやアピール目的履歴書ではない

小説とは、物語や登場人物が書き手が読み手の感性をくすぐり、その興味と意識に潜り込んで初めて生きるものだ。

完全無欠な記述起承転結は、時にその物語をつまらない物にさえする。

書き手は、読者に対して、パズルピースをばらまく事で

読者がそれを手にし、組み立て、最後にひとつの絵になるのだ。

勿論、完成された絵が素晴らしく、読者の納得のいくもので、

その過程も楽しめたのであればよいだろう。

だが、ひとつ、ふたつとはめるべき場所を悩むピースがあればどうだろう?

ひとつ向きを変えるだけで、完成された絵が全く意味の異なるものになる事もあるだろう。

それは手法として実に面白い

また、読者は書き手の人物像に興味を持って、それを求めている訳ではない。

なんらかの思想哲学小説に盛り込み、読者をその思想に引き入れる目的がある場合を除き、

作者や物語目的が明快すぎる小説ほど、つまらないものはないだろう

それは小説などではなく、”アイデア”と呼ばれる、小説の何段階も前の姿だ。

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