自分で物事を考えられない人間は、より所にする価値観・思想・行動規範を外部に求める。
ネットメディアはテレビ・新聞といったメディアと違って、大衆に多様な価値観・思想・行動規範を与えた。
多様性というと聞こえはいいが、要は自分に都合の良い価値観・思想・行動規範を、自分で考えるまでもなく入手可能になったということだ。
ネットで検索すれば簡単に自分に都合の良い考え方が手に入る。簡単に借り物の人生が歩めるという寸法だ。
借り物の人生を一度選択すると、そう簡単には元に戻れない。
自分の足で立つことも出来ないような人間が、いまさらネット無しで生きていけるだろうか?
これがまさにネットメディアの負の側面なのである。
.
よくよく考えてみてほしい。
自分でものを考えられる人間であれば、わざわざ価値観・思想・行動規範を借りずに済む。
たとえネットからヒントとなる情報を得るにしても、最終的に考えるのは自分自身だ。
そういった人間はごく一部、比率で言えば、1/1000以下の人間が自分の頭で考えられる側の人間だ。
思考力の優れた人間は世の中にたくさんいるが、自分で考えられるかというのは実は別問題なのである。
いくら緻密で的確な論理を展開できる人間でも、しょせんは借り物の知識と哲学にとどまっている人間も少なくない。
自分で考えられる人間というのは、そういう人間たちとは一線を画する。
つまり、自分で考えて確かめ、自分自身の考えに確信を持てるかどうか。そこに違いがあるのである。
.
確信と言っても盲信ではない。盲信というのは、しょせんは自己欺瞞である。
自分の中ではある程度間違ってそうな気もしてるにも関わらず、「考えるのめんどくさいし、間違いを認めるのが怖いから、正しいってことにしておこう」
と考えて、自説を頑なに信じ込もうとする。それが盲信である。
確信というのは、盲信とは違って、自己暗示なしに疑いようもなく素直な気持ちとして正しいと信じられるということである。
もちろん、100%正しいと信じていなくてもよくて、高確率でもっともらしいと信じているという意味である。
.
そのような確信を、自分自身の考えに対して抱ける人間が果たしてどれくらいいるだろうか?
これは自信家であるかという問題ではなく、個々の考えに自信を持っているかという問題でもなく、
価値観・思想・行動規範を借りるデメリットが、「真理探究の基本姿勢が損なわれる」ということならば、「真理を探究することを人生の優先順位から外す」ことを意図的に行う上にお...