2010-01-18

http://anond.hatelabo.jp/20100118165539

根拠もへったくれもない。国が行う行為の評価基準はすべて国益に集約されるのだから、これが「適当なところでいいじゃん」となったら、議論として寄って立つ足場がなくなる。国益の観点をおざなりにするのは、政治の話にみせかけた別の話だ。

いやだから、何故最大化でなければならないのかってこと。

そりゃ、国益よりも公共の福祉に反する事情の方が大きければ、実質的国益がないのと同じであるってことはいえる。

でも、優越していれば足りると考えてもいいんじゃないのか?

議論の俎上にのせるべきだ、という意見なので必要となるのはむしろ「足りている根拠」のほう。

それをいうなら、最大化でなければ足りないとする根拠の方が必要だろ。

オリンピック世界新記録でないと金メダルを授与しませんっていってるのと同じじゃないのか。

あるいは、そういった記録でないなら、優勝者以外は日本代表になれないっていうのと同じだよな。

枠が極端に狭い場合は、そうするのも合理的とはいえる。

しかし、そういった枠が設けられてもいないのに、最大化と極端に狭くすることの合理性はないんじゃないのか?

ただ、国益に関して国民コンセンサスがとれていない時点で、「足りている」と言えないことは明白だが。

コンセンサスがとれてないなら、そもそも足りるとか足りないという話にならないのでは?

にもかかわらず、「足りない」と断言できるのがどうしてなのか不思議としか。

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