あの911から八周年!
日本の記者は現場にも近寄らず、安全地帯から欧米の派兵を論評するなって
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また風向きが変わった。
カブールからのビッグ・ニュースが飛び込むまで、ドイツではNATO(正確には多国籍軍の現場司令官がドイツ人だった)の不手際による誤断で、アフガニスタン住民七十余名を米軍機が爆撃し、死亡させたことを非難する論調が強かった。
ドイツではメルケル与党の苦戦が伝えられた(ドイツ総選挙は27日)。
醜態は現場司令官の誤断、タンクローリー二台がタリバンに乗っ取られ、その周囲を武装したタリバン百余名の兵士が取り巻いている、と僅か一人のアフガニスタン住民の情報をもとに米軍に空爆を要請した。交戦協定では民間人が混じっている可能性があれば、空爆は行わない。情報は複数が望ましい。
西側マスコミは一斉に非難した。
オバマ政権とて言い訳に苦労し、しかしゲーツ国防長官は「我々は撤退しない。テロリストに屈服すれば米国ばかりか西側もイスラム諸国さえもが、テロリストの軍門に屈するからだ」と言明し、NATOのラムソセン事務局長も「早期撤退は考えていない」と記者会見したばかりだった。
誤爆現場には欧米のジャーナリストが飛んでいった。日本の記者は誰も行かなかった(フリーの記者がいるかも知れないが現時点で確認されていない)。
思い出されたい。
湾岸戦争、イラク爆撃のおり、NHKはアンマンから「こちら現場です」と放送しておりましたね。アンマンは隣国ヨルダンの首都、バクダットとは数百キロ離れていますよ。
そしてCNNは現場にいた。実況中継の映像は全世界に配信された。
毎年、戦場取材で死亡するジャーナリストは七十名から百三十名いる。
日本人はフリーのカメラマンがミャンマーで兵士に狙撃された事件が、記憶に残る。
▲急襲作戦はマスコミに伏せられた
タリバンが人質とともに潜伏した個所で、タリバンは英国人ジャーナリストら人質をクンデス郊外の陣地からパキスタンの無法地帯(タリバンの支配地域)へ移動させようとしていたからだ。
英国特殊部隊とアフガニスタン兵は急襲により英国人ジャーナリストを救出したが、通訳のアフガニスタン人は悲惨にも犠牲となった。タリバン兵士十数名が銃撃戦で死んだ。ブラウン英首相は、この作戦を承認していたとロンドンの「タイムズ」紙は伝えた。
救助された記者は英国籍(アイルランドとの二重国籍)のファレル記者で、アフガニスタン通訳のムナディ(四年間、カブールでNYタイムズ記者でもあった)はファレルを助けようとして銃弾に斃れた。
拘束されたのは日曜から水曜までの四日間で、あちこちを移動させられ、トヨタカローラのおんぼろ車で泥だらけの村や穀倉地帯を目隠しをされたりした。
生き残ったファレルが英国大使館に回答したところではタリバン側の扱いはよく、しかし、アフガニスタン人通訳をぶん殴ったり蹴ったり「おまえらは敵だ」と容赦なかったという。
食糧はそれなりに与えられ、水も飲まされた。
二年前にイタリア人ジャーナリストが通訳とともに拉致されたケースでも外国人ジャーナリストだけは扱いが良かった。
救出作戦には米軍が武装ヘリを用意し、要請があれば航空機も出動を準備したが、すべては英国特殊部隊が行った(NYタイムズ、9月10日)。最高司令官のマクリスタル将軍には逐一報告がなされた。
カルザイ大統領は「有能なアフガン通訳は残忍な方法で、敵に殺された」と強く非難し、ブラウン英首相は救出を決断した英国部隊を賞賛する一方で、「遺族にはちゃんと補償をしたい」と述べた。
かれは特待生としてドイツにも派遣され、ロンドンのタイムズの契約記者でもあり、ラジオ放送を開始する直前だった。極めつきに優良な記者だったと2001年か04年にかけてNYタイムズで同僚だった多くのNYタイムズ記者らが追悼と哀惜の談話をだした(NYタイムズ、9月10日)。
クンダス地区はタジク人とパシュトンの共生地区で倉庫の地下室にはロケット砲も隠されている。
英国特殊部隊のヘリコプターは午前貳時半から作戦を開始し、付近は銃撃音と爆発で地響き、銃声が唸り、ファレル記者自身もどちらが撃っているか分からない銃撃戦の渦中で恐怖の体験をしていた。
英語が聞こえた。かれは「私は英国人人質だ」と叫んだ。銃弾の嵐のなか、英国兵士に救出された。
通巻第2706号