2009-09-05

伊藤計劃虐殺器官』の“大嘘”について

伊藤計劃虐殺器官』についてのネタバレがあります。

っていうかネタバレしかありません。

いきなりラストシーンから引用したりするので未読の人は気をつけてください。

 

     ※     ※     ※

 

 ・今日の虐殺(2) - 伊藤計劃:第弐位相 http://d.hatena.ne.jp/Projectitoh/20070710/p1

エピローグで主人公はあることについて大嘘をついているかもしれなくて、事実はどうなのか、は一応それまでに触れられているかもしれない、

わかりました。わかりましたよ。

「大嘘」というのは、

 ぼくは罪を背負うことにした。ぼくは自分を罰することにした。世界にとって危険な、アメリカという火種を虐殺の坩堝に放りこむことにした。アメリカ以外のすべての国を救うために、歯を噛んで、同胞国民ホッブス的な混沌に突き落とすことにした。

 とても辛い決断だ。だが、ぼくはその決断を背負おうと思う。ジョン・ポールアメリカ以外の命を背負おうと決めたように。(p.281)

で、「事実」というのは、

「そのジョン、って人は、終末に惹かれているように聞こえるね」

 ぼくは言って、ジョン・ポールの好んだ風景想像しようとする。ひたすら屍体の山を築き上げながら世界を移動するこの男が好んだ、廃墟物語

 ジョン・ポールが夢見ているのは、そんな廃墟と化した地球の姿なのだろうか。無人の宇宙ステーションとして太陽の周りをぐるぐる回り続ける、宇宙船地球号。異星人が立ち寄って、かつてここに文明があった痕跡を認めるも、その主人はすべて死に絶えて、ただ整然とした建築だけが地上に突き出ている。(p.99)

ジョン・ポールサラエボクレーターの縁に立った。そこで妻と子供を失ったこの男がどのような感情に襲われたのかは、当然ながら記録からは想像するしかない。しかし、とぼくは思った。自分が魅かれていた小説風景が、そこに現前しているのを見たとき、人はなにを思うのだろうか。(p.108)

 ぼくは、その光景想像して、不思議な安らぎに包まれている自分に気がついた。

 それは、ぼくが見る死者の国の夢と、そう変わらない風景だったからだ。(p.100)

です。たぶん。

 

     ※     ※     ※

 

281ページでグダグダ語っているのは“プラカード”にすぎません。

 ・さすらいびととして死ぬこhttp://d.hatena.ne.jp/Projectitoh/20060124/p1

最後に映し出される在りし日のWTCを以て、ブッシュ批判をすることだろうか。帝国主義告発することだろうか。

 もちろん、そうであってもいい。けれど、そういうことはラストシーンを見ればわかることだ。そういうのは、いわばプラカードみたいなもので、誰にでもわかるように大きな字で書かれているものだ。多くの人は「そうだろうな」とあらかじめ自分の中にあった同じ結論と同じテーマを再確認するだけだろうし、そうでないひとびとは、抑止力としての暴力を信奉し続けるひとびとは、まったく意見を変えることなく反発するだけだろう。

 

主人公クラヴィス・シェパードは、ただ夢で見た“死者の国”をアメリカに現出させたいだけなのです。

彼は“世界精神型”なのです。

 ・「ゾディアックhttp://d.hatena.ne.jp/Projectitoh/20070702/p1

ある物事を主人公たちに見せつけることそのものを目的とし、その見せ付ける過程が映画になってゆく、そんな悪役を「世界精神型」と呼ぶ。

そのわかりやすい例はというと、やはり「パトレイバーシリーズの帆場と柘植だろう。帆場は或る「風景」を見せつけ、しかる後に別の風景を現出させる「東京に対する悪意そのもの」だ。帆場は映画における憎悪として純化された階梯へステップアップすべく、映画冒頭で自殺し、キャラクターであることすらやめてしまう。

「2」の柘植もまた、世界精神型の敵役だ。よく柘植目的を「平和ボケした日本に『普通の国になれ』と目を覚まさせるために」なんておポンチな勘違いをしている人がいるけれども、それはぜんぜん違う(まあ、普通映画見てればわかるようなもんだけどね)。柘植目的は、劇中でも語られている。東京という空間戦争という時間を現出させること。都市舞台戦争を演出することだ。人々の前に、日常とは異なる時間を描き出すこと。それこそが目的なのだ。それをすることで政治的にどうこう、とか国民意識を変えよう、とかヘボいレベル柘植コミットしない。それは演出家では無いからだ。

世界認識の変革を迫るヴィジョンを演出することで、ある事物の本質を抉り出すことそのものを目的とし、どんな現世利益的な欲も動機や目的にはしない、そんな悪役。世界を支配するのでもなく、政治的な目標を達成するのでもなく、金をもうけるのでもなく、ただある世界観を「われわれ」の世界観暴力的に上書きする時間を演出する、それだけを目的とした悪役たち。それが「世界精神(ヴェルト・ガイスト)型」の悪役(というか、敵役、と言ったほうがいいのかもね)だ。

この種の悪役は日本映画アニメにはけっこう多い。黒沢清の「CURE」なんかもそうだし、

 ・ダークナイト奇跡 http://d.hatena.ne.jp/Projectitoh/20080723

この映画ジョーカーは悪意そのもの、人間の心理のどぶ底を浚ってくるクズ拾いのような世界精神(ヴェルト・ガイスト)型ヴィラン、金や権力など目もくれず、ある世界に人々を誘うことそれ自体を目的とするタイプ観念型悪役、すなわち、

の系譜に連なり、その中でもジョーカーは、上記の存在がどちらかといえば「社会」そのものをターゲットにしているのに比べ、心理の集合体、個の集合体としての世界を抉り、新たな世界観を観客に見せつけるどぶ底の狂言回しとして描かれている。

 

シェパードの感じた安らぎは終末の安らぎです。

 ・宇宙戦争 http://d.hatena.ne.jp/Projectitoh/20050701/p1

「A.I」で人類滅亡の唄を描いたスピルバーグは、この映画で再び終末を描く。通信が途絶し、軍隊は通り過ぎてゆく。外界と遮断され、地下室に閉じこもったまま、外の世界を知る術はない。見事なまでに終末SF王道っぷりだ。世界が「寂しく」なってゆくこと。世界からさまざまな要素が抜き取られ、閑散とし、やがて風の音のみが唄う風景がやってくるだろう。そんな終末への憧れを、スピルバーグ怪獣映画として描く。

 人がゴミのように死んでいくなか、世界は寂しくなっていく。怪獣世界を蹂躙し、我々は反撃の機会すらロクに与えられず、ただただ暴力の羅列を観ているしかない。そして、世界が終わる。

終末は、個人の視線から世界の断絶として描かれる時にのみ、それ独特の感動を生み出すのだ ──「ターミネーター」で、嵐が来るというガソリンスタンドの主人の言葉に答えを返すサラ・コナーの表情を観ていてなお、反撃する人類大統領活躍する軍隊を、カタルシスを描け、と阿呆のように要求する者は、終末の喜びを理解せぬ者たちだ。個人の視線から世界の終りが描かれることの喜びを、冷戦が終わってから久しく忘れていたこの感動を、「宇宙戦争」はひさびさに味わわせてくれる。世界が終わることの安らぎを。

 

     ※     ※     ※

 

虐殺器官』は、主人公が自分の夢を実現させる手段を手に入れて家に引き篭もるというお話なのでした。

こう書くと“ボンクラ”っぽいですが、まあ事実ボンクラですよね。作中で男友達とジャンクフード食いながら「プライベート・ライアン」をリピートして見てたりして。

あと、帆場/柘植ジョーカー自分ヴィジョンを実現させる手段を自力で調達していたのに対し、シェパードは他人からタナボタ式に譲り受けただけ、というのもヘタレっぽいというか。

ボンクラ少年がボーイ・ミーツ・ガールして世界に直結するセカイ系と似たようなもんで、ボンクラ特殊部隊員がボーイ・ミーツ・デウスエクスマキナ世界に直結ですよ。

 

     ※     ※     ※

 

ところで、ジョン・ポールを巡るドラマはいかにも“弱い”ものです。

彼の理屈は、第一部に登場した“標的A”の理屈とほとんど同じです。

「虐殺だと。われわれの平和への願いをそのような言葉で冒涜するのか。これは、われわれ政府国民に対する卑劣テロリズムとの戦いなのだ。」(p.43)

そうすることで、彼らとわれわれの世界は切り離される。殺し憎しみあう世界と、平和世界に(p.265)

ようするに、“彼ら”がいると“われわれ”に危害を加えてくるかもしれないから根絶やしにしましょう、平和のために、と。テンプレート通りの虐殺指導者ということです。

補足ですが、「決断を背負おう」だの「アメリカ以外の命を背負おう」だのも含めてテンプレです。

 ・http://d.hatena.ne.jp/flurry/18000920

イェルサレムアイヒマン」においてハンナ・アーレントは、ナチスの処刑者たちが自らの恐るべき行為に耐えた方法を正確に説明した。彼らのほとんどは全然邪悪ではなかった。彼らは自らの行動が犠牲者に屈辱や苦しみや死をもたらすことを知っていた。この苦境に対する彼らの逃げ道はこうであった。

「『私は人々になんと恐ろしいことを行ったのだろう!』と言う代わりに、殺人者たちはこのように言うことが出来た。『職務を果たすときに、なんという恐るべきものを私は目撃しなければならないのだろう! 私の肩に背負われた務めの、なんと重大なことよ!』」

 このようにして彼らは、誘惑に抵抗するためのロジックを反転することができた。彼らの「倫理的」な努力は「殺さず、拷問せず、恥をかかせないという誘惑」への抵抗に向けられたのだ。こうして、哀れみや同情という自然倫理的衝動に背くという、まさしくその行為こそが、倫理的に崇高であることを証明するものとなってしまった。職務を果たすことは、誰かに危害を加えるという重荷を引き受けることを意味したのだ。

 

こういうテンプレ発言に対しては作中でシェパードやウィリアムズツッコミをいれていたのですが、ジョン・ポールに対してはなんのツッコミも入りませんでした。いわばボケっぱなしの状態なわけでして、ここは読者が「おなじかよ!」と突っ込むところです。

「なんのことはない、やっぱり普通の虐殺者だ。『正しさ』の狂信者ですよ」(p.67)

どんな戦場でも、どんな悲惨でも、同じような人間が同じようなことを言う。コメディ番組みたいだ、とウィリアムズはぞっとするほど朗らかな声で笑った。繰り返しはギャグの基本だからな、とつけ加える。(p.209)

 ・ぼくとあなたはちがうということ http://d.hatena.ne.jp/Projectitoh/20060211

こういう人の思考回路は、テロリストのそれと一緒です。

要するに、人が一人一人ちがうものだということをすかっと忘れて「アメリカ人」とか「朝鮮人」とか「アラブ人」とか「中国人」という民族国家の(が大体の場合雑にいっしょくたになった)ラベルでしか人間を観ていないからです。

 

小説ラストで主人公までもが繰り返しギャグに参加しやがった……と思いきやそれは“大嘘”だったというのはすごくいいですね。

 

ジョン・ポールを巡るドラマはいかにも“弱い”。

作中で虐殺されていった人たちのドラマには触れず、アメリカ人の死だけに寄り添う。「被害者のなかに日本人はいませんでした」と添えるニュースのような居心地の悪さ。人は見たいものしか見ない。

そしてこのことは織り込み済みだったと思われます。

 ・http://d.hatena.ne.jp/Projectitoh/20050130#c1107181793

それは私が安手のスパイ小説アメリカ製の戦争アクション映画思春期を過ごしたからです。私は歴史そのもの、政治そのものを扱いたいというよりは、関心のあるフィクション群を相互にリンクさせその関係性を説明するツール、としての世界歴史に関心があるんだと思います

 ・プライベート・ライアン http://web.archive.org/web/20070307060600/www33.ocn.ne.jp/~projectitoh/cinematrix/roadshow_12.html

 この映画の、センチメンタル物語的部分を「この映画の弱点」だとする人がいる。

 ニューズウィークや文春などの映画評をみても、この「物語的」部分には納得しかねる人は多いようだ。確かに、そのような場面で泣いている観客もいたし、そうしたセンチメンタリズムを、これまでのスピルバーグ作品の文脈で解釈しているような貧弱な感性では、確かにそうした拒否反応がでるのも当然だ。

 だが、いやしくも映画評論するものなら、その「物語」の弱さをここぞとばかりに非難するのではなく、逆に怪しむべきだ。

 この映画物語は、きちんと体裁の整った、泣こうと思えば泣けるセンチメンタリズムを内包したものだ。

 しかし、あの戦闘シーンの、凄絶という言葉ではとても語り尽くせない臨場感の前には、あまりに弱い。

 だが、私はふと思った……スピルバーグは、物語を「弱い」ものとしてあえて導入しなければならなかったのではないか、と。

 物語がいかに「容赦のない映像」の前に無力であり、白々しいものであるか。それを指し示す為に、あえて無力な物語を導入したのではないか。スピルバーグ自身がそう考えているかどうかは知らないが、少なくとも、この映画の「物語」は、私の中で「映像」の鮮烈さを、暴力性を、補強する対比の機能を果たした。

 それは私の中で「弱点」ではなかった。

 オマハ・ビーチの映像を前に、物語の無力さを徹底して暴き出す、演出装置のように見えた。

 あの映像の前に物語はいかにも無力だ・・・物語はなにも「語れ」はしない。ただ、見えるものの凄絶さ、映像的な描写のみが、観客に何かを「語り得る」、その事を伝える為の「無力な物語」なのではないか。

 

大森望は『虐殺器官』の帯に、

あなたはこの結末に耐えられるか?

と書いたようですが、私としてはまったく逆で、あの結末でなかったら耐えられなかったと思います。冒頭のオマハ・ビーチのない「プライベート・ライアン」みたいなものですからね(それと最後のアレがない「未来世紀ブラジル」)。

 

     ※     ※     ※

 

虐殺器官』は、世界スターバックスドミノピザ世界)が塗り替えられはじめるところで終わります。世界が変わってしまう予感に満ちたシーン。

これに対応するのは、劇パト1の自衛隊レイバー暴走/劇パト2のベイブリッジ爆破/ダークナイトマフィア会合にあらわれたジョーカー、といったところでしょうか。

いわば『虐殺器官』とは、帆場が飛び降りる場面/柘植東南アジアで闘う場面/ジョーカー銀行強盗をする場面、を延々と描写した小説なのです(編集の都合上、帆場の来歴をたどるシーンもあったりしますが)。

作者が存命ならば、後藤隊長のようなキャラクターの登場する続編が読めたかもしれないですね。

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  • http://anond.hatelabo.jp/20090905184450

    引用が多すぎて結局何が言いたいのかさっぱりわからん

    • http://anond.hatelabo.jp/20090905230101

      えっと、言いたいことは最初に書いたやつで全部です。 エピローグの「大嘘」というのがコレで、それまでに触れられている「真実」というのがソレだよね、と。それだけです。   い...

  • http://anond.hatelabo.jp/20090905184450

    前の( http://anond.hatelabo.jp/20090905184450 )の続き。    国家が人格的な「犯人」である殺人事件、というものを想像してほしい。 (『虐殺器官』p.72)  ・著者インタビュー:伊藤計劃先...

  • http://anond.hatelabo.jp/20130412114724

    ゆとり用に直リンしてやんよ。 http://anond.hatelabo.jp/20090905184450 表面的にしか知らなかった作者を 亡くしてからディープに知る寂しさは ほんと、どうしたもんかねぇ。

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