情動の主体がリアルな「私」
↓
システムとしてのリアルな「私」
という変容。
情動という道具⊂システムとしての私総体
という認識
「私」を再構成するためのきっかけ、ツカミとしての情動。
情動のない「私」は存在しうるか?
システムとしての「リアルな私」は現実の私をどこまで記述可能か?
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