もともと理由には執着していなかったと思う。
これがこうなって、そうなって、こうなった。それだけ。
沢山の思惑を持っている人々が一緒に生活しているんだから、その仕組みの中での合理的な手段としての原因と、それに基づく予測や結果は有意義であるし、楽して、楽してというと語弊があるかも知れないけど、お互いに妥協できるものを大事にして生きていくのは有効だろう。
でもさあ。
自分が「感じる」ものに他人の感覚に基づいた感想を聞いてどうするんだろうか。
そんなもの他人にはわからないべ。
もうちっと自と他を区別したほうがいいんじゃないの?
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