著名人の死を目の当たりにして、
今日考えた事を書いてみようと想う。
まず、「死」そのものには尊厳なんて無い。
当たり前の事だが「死ぬ事」と「死」は違う。
ベッドの上で看取られる事も、山で遭難して動物の餌になる事も、
根本的には何も違わない。
精々「生き残った人間の当人に対しての感情」が、違うくらいじゃないかと想う。
どう違うのかを言及できないくらい「生き残った側からみた死」については考えてこなかった。
それが少し悔やまれる所だが、これから死ぬまでに考えればよいか。
病床と言うベッドで死を迎える事は、澁澤翁が何か書いていたな。
勿論未読。僕にとってはまだ読めないものだ。
山で死を迎える事は、当人が望む場合もある。
鳥葬とまでは言わないが、散骨を望む人もいる。
姨捨山を思い出す。おいてけ堀というマンガ日本昔話も同時に思い出す。
どちらも、子供心に嫌なにおいがした。
死の間際に、何を見るのだろう。
死にたいと声をあげる輩の多い。
不遇な死を迎える人間も多い。
死には、死という事しか意味がない。
死にたい奴が生き残り、
生きたい奴は生きて、
それで世界は回っている。
死を迎えた人間は、
そのままその世界から居なくなるだけだ。
http://anond.hatelabo.jp/20081225154927 なぜなら物事に「意味」を求めるのは人間だから。 なぜ元増田の言う死に意味がないかといえば、 意味を求める主体としての人間(死亡した本人)がいなくな...
http://anond.hatelabo.jp/20081225161447 補完ありがとう。ただ、もう一つ付け加えられるなら、残された人の中にある「(当人の)死」に対する認識は既に「死」じゃないと想うのです。それはた...