はてな匿名ダイアリーに、「厚労省殺傷事件で人を殺す以外にこの国に政府に訴える方法は存在しないと思った。 」という一文が投稿されている。私はこれを読んで、これは書いたものでなくして、書かれたものであろう、と判ずる。その書いた、書かれたと記すのが意味するのは、その文章の筆者が、自ら物事を見て捉えたところから、自ら何かをすることを考えて、・・・その考察は同時に、自らことを為すならば、その時に自らがそこに従っているところの価値観や道徳観に枠づけられるものであり、言い換えて、自らする考察とは、そのようにして見出させるものしか、その人に見出さないものであるが、・・・さて、そうした思い巡らしの中で形成された、自らの思いを述べたものではない、ということである。
書かれたものである、という性格付けだけを特に言えば、例えばその文章の場合、佐藤優などを代表に、テロによる世直しへの期待が高まっていると騒いで、この国の《ジャーナリズム》が広めているところの、人々の思いと推定的に措定しているものに、この文書の筆者が身寄せして、あたかもその〈思い〉を有する一人であるが如くに構えてしたものであるように、自分がそう考えているのでなくして、人々がこう考えているとされているものを、独白的に記しつけることを、書かれたものであると私は言う。こういう文章の効果は、筆者が何かに就いてした観察や経験より得られるものより、その人がその人自らの意識として形成されたものを述べたものであるならば、その観察と考察の妥当性が検討されるのに対し、独白的であることで、その〈思い〉を持つ人が居るか居ないかが、まず検討の必要がなくなり、次にその表白に示された判断や意図やは、適切に導き出されものかどうかの批判を免れたところにポジションを取らせてくれる、というところにある。
この事実としての検討と、様々な見地よりされる妥当性の批判とを、あらためて喚起させない利点によって生ずるもの、あるいは、その利点そのものの別の姿であるのは、読み手は、その〈思い〉を直接に受け取るならば生ずるはずの共感か同情の反応をして、そこに言われていることに向き合わねばならなくなる。そうなると、例えば、これこれの境遇や状態であるから、また、それらに加えて、その中でこんな強い感情を自分は抱かされているから、このように自分は行動する、と述べられたとき、その彼の行動そのものの是非を検討することは、境遇や状態への同情をいくらか欠けた眼差しであり、彼が抱いている感情への同情が何かしら不十分なものである、と言われることになる。
そうして、我々は、これはしょうがないとか、已むを得ないものだとか、そうした物言いを口にする。これが了解的なもの以上に引き上げられると、人はそうしたものである、との判断や理解へと位置づけられることになる。だが、この人間理解に行き着いたところで、そこに指摘すべき欠陥は、そう行動していること自体の是非が何ら解明されていないままである、ということである。また、もっと深刻な欠落は、ある行動をして正しいものであらしめるところに従ってしか行動出来ない人間というものを、その人間理解は見出していない、ということである。我々に取って、そのように見出される人間を捉えてあることは、極めて重要であり、極めて意義深いものであり、また、極めて必要なものである。なんとなれば、そのようにして理解されている人間というものこそ、その人一人をして、自らがどんなものであるかを知らしめるものであり、その自らがその中の一員であるところの社会がどんなものであるかを見て取らせるのであり、更に、そのような人々よりなるものにとって、妥当であり、適切な、また必要な政治がどんなものであるかを見出させるからである。
もし、人はそうしたものである、との理解を、先の欠陥や欠落を見極めずして抱くならば、そこからの思い巡らしが、我々それぞれには、それぞれにとって可能なあり方、社会には可能な社会、そして政治に於いては実現させるべき政治へと進んだとして、何も得させることは無い。そして、この得させるところのなき人間理解は、数多くの《書かれた》文章によって、これまで積み重ねられ、補強され、流布させられて、その結果我々の抱くところとなって来た。そしてもし、その人間理解が薄れたならば、それを再認させるし、またもし、ことがあればそれを思い起こさせて、そのことを捉えさせる方向付けとなるよう強調されてきた。
そして、私は、先の匿名ダイアリーの文章は、今回の事件に際して、そのような働きをするように《書かれた》文章である、と思うのである。それは、その文章の筆者が望む望まないに係わらず、生じてくる働きである。上で述べて来たところより、その働きが生ずる理由、また、その働きが生じさせるものを言うならば、まず前者に向かうに、次のように問うて見よう。その筆者は自らが、今回の事件の、あの最も暴力的な行為を、自ら是するものであるかどうか、自らにどれだけしっかりと問うているであろうか。ここで問われるべきは、どんな境遇や状態ならば、という前提条件の問題ではない。この禍々しい行い自体の是非である。私は、その筆者は、それをあまり問わなかったと思う。もしきちんと自らに問うて、しかもその答えを明らかにした上で、あれを書いたというのならば、途中を飛ばして突き詰めていってみれば、彼は、人を殺すことは正しいことであり、また彼は、人を殺すなという道徳律に服していないと自分を見出している人である、ということになろう。
そして、このことをきちんと自らに問わずして、漠然な踏まえどころとしたのが、自分以外の人は、これこれの境遇や扱いにあれば、こんな行動をするという、皮相な人間理解であり、この無反省に抱かれている浅薄な人間像よりして言えそうなことを、あたかも独白的に、自らの思いと構え立てて書き記したことで、人間そのものはもとより、社会のありよう、政治のあるべき姿を見出さないところに、人々を向かわせる働きをすることになっているのである。そうして、その働きのもたらすものは、浅薄な人間理解に人々を留まらしめることであり、まずは包括的に言って、こうだからしょうがないとか、已むを得ないとか、そうしたところへの同情や共感によって、行為自体の是非を明らかにさせずにおくこととなり、次には、この事件、ならびにそれにつき論評されているところに即して言えば、人々が現在置かれている境遇と待遇とに抱いている不満からして、こういう行動を起こすのは已むを得ないものである、人とはそういうものである、という〈どうしようもない〉人間理解である。
このどうしようもないとは、どうしようもなく浅薄で、どうしようもなく蔑視的な人間理解というつもりである。また、このどうしようもなさは、人々の多くをして、こういう行動は已むを得ないと、その人々自らがそう行動することを、自らに了解していく筋道を与えるよりは、それよりもむしろ、多くの人々をして、人間とはこういう不満を持つと、こんな行動をしてしまうような、どうしようないものである、という眼差しを持たしめるものだ、ということを言う。すなわち、私は、あの文章は、世直しにはこんなことが必要だ、と人々が自ら考えることを促すよりは、また、そのように人々の多くが考えている事実を示しているものであるよりは、むしろ、多くの人々をして、我々の社会には、こんな不満からこんな行動をする奴らが数多く居る、という意識を持たしめるものだ、と思うのである。そして、多数の人々が、多数の人々をして、そう看做すという、この様こそ、最もどうしようもないところである。
そして、そのどうしようもなさに呆れる思いとなるところを強調すれば、こんな程度の人間理解よりして、政治の為すべきところが見出され、社会に於いて為す所のものが告げられ、そして、多くの人々が、それら政府の施策と社会での態度とを、もっとも至極なものだと了解していく、という点である。しかも、このように受け入れられていくところでは、人々をかくも浅薄に見下げて捉えていて、またそのような捉え方が正しいと人々が簡単に同意していることによって、その地位と役割を確固としたものにしているところの、この国の政府の政治的意志を決定し、その意志に基づく社会を作り出そうとする人々に、これまで通りの、またこれまでと同程度の、いやむしろ、それ以上のかもしれない、活躍の場所を用意し、活躍の意義の根拠を与え、また、活躍の必要性のロジックを強力にするであろう。
そうして、ここより言えば、匿名ダイアリーの《書かれた》文章は、よりはっきりと私の感ずるところを明記してしまえば、まさに今述べた活動を支え、裏打ちし、それを否定されなくするよう、その意義と必要性を人々に了解させるために《書かれた》ものである。筆者の真意が如何なるものかにかかわらず、このような効果しか持ちえない仕方で、《書かれた》ものである。いくらか、これを敷衍するに記せば、まずその題からして「・・・存在しないと(ボクは)思った」と読まれるようであっても、正しくは、「・・・存在しないと《人々は思っている》」と読むべきものであり、読み手がその文章より抱くものは、そう思うのも已むを得ない、であって、その主語はさしあたって、あの事件の犯人が、という形でのようであるけれども、正しくは、その文章の書き手がそう思うことは、というものですらも全然無くして、筆者以外の、また読み手以外の、どこかの誰かはそう思うであろう、というものである。つまり、多くの人々はそういうどうしようもない存在なのだ、という人間理解を抱かせる内容であり、そうした人間理解をこの文章を通じて、人々に再確認させているし、再形成させるものである。
その形成の効果あるところを、更に、細かく見るならば、文中、「・・・すれば、殺したくもなる人も出ると思う。」、「誰かを殺せば変わる・・・そう思い続けている人もいると思う。」、「・・・誰か殺そうという人も出るだろう。」という箇所よりして、これらすべてが、第三者に関して、こうであろうとするところであり、それは筆者の人間理解、いや《庶民》像を示して居る。これらの特徴から、この文章全体は、その筆者が考えるところの庶民(人々)に関する理解の地平で、(この庶民理解は、また別に、「人が死ぬということほど絶大なメッセージ表現方法を庶民は持っていない。」という記述より取り出せるものがある。)その記述が為されていると言えるものであって、またこのような記述よりして、当然に読者の持つものは、人々はそうしたものである、との理解でしかない。その人々とは、勿論、読者自身を除いた、読者自身以外の第三者のことであり、そう思っている人々がどこかに居る、居てもおかしくない、という意識を、多数の人が自分以外の多数の人に関して有するようにさせるものである。
その多数の第三者の持つ《思い》を、筆者が決して持つものでないことは、「誰かを殺せば変わると本気で思っていた。それは政治家になって日本を変えるよりもずっと手っ取り早いと思っていた。今ではそれは危険な思想だと思うけれど、そう思い続けている人もいると思う。」とあるところで、自分はそんな考えを持つものでないと記していることに確認出来る。そして、ここよりして、この文章は、自分が決して持たないものをして、人々の思っていることとしてと記して、なおかつ、どこか自分の思いでもあるかのようにすることによって、あたかもインターネットの中にいるとされる《テロ》へ賛同者の一事例であるかのように書くことで、まるでジャーナリストが喜ぶであろうように《書かれた》、とんでもないものであると評せねばならない。また、そのような意義付けで十分である。
・・・つけたりに。文中で一度は、「危険な思想」との認識を示していながら、最後に、「絶大なメッセージ表現方法」という評価付けを与えるのは、まことに矛盾したものである。この相反する捉え方が混在している原因を、真面目に考えれば、筆者に於いてその両者が、共にそれ自体で十分に考察されていない、ということであろう。しかし、自分の取らない「危険な」ものと、自分以外の庶民には「絶大な」ものという風に、両者の帰属先が異なることからして、あまり真面目に理由を見つける必要はないであろう。で、不真面目に解すれば、自分を外したところで、人々に向かっては、絶大なメッセージになるよと勧めている訳で、まことに不真面目な提案である。しかも、それは、上に述べたような、多数の人々が自分以外の多数の人々に関して持つ意識の中で、「危険なもの」という性格付けを帯びることにもなっているのである。(id:kenkido)
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